約束はいらないわー、はたされないものなど大嫌いなのー、なんて、ふと気づくと電車のなかなどで思わず口づさんでいたりする、今日このごろ・・・(苦笑)&(恥)
カサヴェテス「 ラヴ・ストリームス 」。カサヴェテスの映画のカメラは、いつもちょっと不思議な位置にある。ヘンに中途半端な俯瞰のショットとか。「 フェイシズ 」なんかの初期作品に比べて、かなり普通の(?)映画っぽくなってきているだけに、その不思議さがいっそう際立って感じられる。これは何なのだろう。
勿論、ヘンな感じを狙ってやっている訳ではないだろう。もともとカサヴェテスは悪名高いアクターズ・スタジオ出身の俳優だから、カメラの位置にも何らかの心理的な意味(! ?)のようなものがあるのかもしれない。カメラと人物、カメラとその場所との関係のさせ方の、カサヴェテス的な独自さを考えることなく、カサヴェテス的な人物の「 感情 」を理解することは出来ないのではないだろうか。
カサヴェテス的な人物の感情の不安定さは、、カメラの位置と人物の位置およびアクションとの、なんとも不思議な関係からこそ、生成されているのではないだろうか。カメラが、その位置にあることが、人物にどのような影響を与えるのか。カメラがある移動をすることが、人物のアクションとどのように関わってくるのか。カメラと人物との関係のさせ方において、カサヴェテスの映画には、独自の屈折した複雑さがあり、それは、容易に、俳優の身体性とか演技とかに回収してしまうことはできないような「 軋み 」を生み出す。
映画を撮影するにはカメラが必要だ。そしてそのカメラは、監視カメラのように傍観者に徹する事もないし、神のように全てを見通している訳でもない。といって、一人の登場人物のようにはっきりとした人称性を持つ訳でもない。カメラは、人物や場所や物語、感情などの生成に積極的に荷担している、にもかかわらず、その位置は定かではなく、役割は不安定に移ろっている。
しかし、いつものこことはいえ、ジーナ・ローランズはカッコいいです。靴を脱いで裸足でボーリングするとこなんか、シビれますね。
今日は冬らしい晴れてとても寒い日なのだけど、空の色は、甘い感じの水色で、冬の厳しく澄んだ青とは違う。まだまだこれから寒くなって行くというのに、季節はもう春へと向かって動いているのだろうか。
午後になると、雲がかかりひどく冷たい風が吹いてきて、さらにぐぐっと冷え込む。上空で風がごうごういって舞っている。木の葉が風に吹かれて乾いたチリチリという音をたてている。剥がれかけのポスターがひらひらなびき、工事中のカンバンがガタガタ鳴っている。手がかじかむ。黒猫のはしりかたも、あまりの寒さでぎこちなく、カクカクしている。
夜中一時前。昼間よりも風がない分寒さはゆるい。チャリンコでサッカー場の横の真っ暗な道を右折して、人気のない坂道を下り、今度は左折すると、陸上競技場の前の広くて明るい道に出る。真っ暗ななかで黒々として揺れている木々。遠くから、かなり遠くからだと思われる笑い声が聞こえる。やけによく響く。