カイエ・デュ・シネマ・ジャポンに載っていたティエリー・ジュスによる黒沢清のインタビューより。
『僕個人で言えば、生活している上で自分を縛っているいろいろな記憶ですね、それからは解放されたいと素直に思っています。』
最近の黒沢作品の鬼気迫る感じをシンプルに表現している。そしてそれは次のような発言に直接つながっている。
『自分の撮りたいものが分り、自分の作風が確立しているなどということは真っ平ごめんだということですね。』
勿論この発言を、近代主義的な、常に新しい様式に挑戦する、などという風にとってはいけない。記憶からの解放、というのはそれとは全く別のことだ。
罪と罰 」と「 ギブス 」、レンタルですませようと思っていたのだけど、聴きたくて我慢できずに、買ってしまう。用事でギャラリー現へ向かう途中の電車のなかで、何度も繰り返して聴く。予想していたよりもずっと、懐の深い人ですね、この人。つーか、急成長してるじゃん。すごく。
『快晴なれど 昼下がり風呂に入り 風渡る中に川端康成を読んで昼寝する』
『鰹のさしみ 酒 広津和郎 晩秋 などよむ 牡丹 十一株のうち一株二つ花ひらき この夕一つ花ちる』
『』内は、小津安二郎の日記。小津の映画がフォーマリストとしての問題設定ではなくて、ある種の身体感覚に忠実であろうとする「 結果 」として、あのような厳密な形式を持つに至ったのだ、ということが良く分る。ここでいう身体感覚とは、通常の有機的身体を否定するような、身体感覚のことなんだけど。
風呂に入る小津の身体に、快晴の空が混じり込み、昼寝する身体には、渡ってくる風や川端による言葉が侵入してしまう。小津という主体が『二つ花ひらき この夕一つ花ちる』をみるのではなく、花がひらき、ちる、という感覚が小津という存在を主体化させる。鰹のさしみや酒や広津和郎が混じり合って、それ以前の小津とは別の小津を新たなものとしてたちあげる。
実際、小津の映画は上記のような感覚によって構築されているように思う。小津の映画においては、人物が事物を見るのではなく、一旦バラバラに解体された身体と、断片化された事物とが、有機的な知覚の秩序とは「 別のやり方 」で再度、接続され、混ぜあわされる。ショットとショット、イメージと音声は、繋がっているようでいて繋がっていない。しかしその断絶がひとつの持続したリズムをつくり、流れを生み、我々が知覚しているものとは違ったもうひとつのものごとのありようを示している。
我々は確かにそのなかにいるのだけど、我々の感覚器官が感じる事の出来ない微妙な何かを、見え、聞こえるようにしている。