早朝。高いところから、まだ誰もいない工事現場を見下ろす。格子状に組まれた巨大な鉄筋で出来た骨組み。地下深くまで掘り下げてあるのが分る。あちこちに張られている落下防止のための幕。むき出しの鉄パイプの足場。動きの全く止まってしまっている、高く聳える何台ものクレーンのアーム。目隠しのために、粗雑につくられた鉄の壁。張り巡らされた黒と黄色の縞のロープ。
ほんの少し前までは、ここはただの、だだっ広い平面だったのだ。『建築』というのは、なによりも先ず『暴力』そのものにほかならないんだなあ、と思う。
勿論、もともとあった、だだっ拾い平面も、ここら辺の山林やら田畑やらを潰して出来たものだし、大体が、田んぼや畑というのも、自然を暴力的に潰してつくったものだ。だからぼくはなにも、建築の暴力性を批判しようという訳ではない。でも、やっぱりこういう風景を見てると、何かとても『痛い』感じがするのは、確か。うーん、痛い、というより、『荒い』って感じの方が正確なのか。『がさつ』とか。神経を逆撫でされる、というか。
でも、こういう暴力的な、痛さ、や、荒さ、がさつさ、あるいは、不毛さ、というのは、ぼくにとってとても親しいものでもある。いつも何処かで何かが暴力的に破壊されていて、そこに強引に不様なものが打ち立てられる。ブルドーザーが土を削り取り、ひッ剥がし、台無しにする。鉄の杭が打ち込まれ、トラックが重たい建材を運び込んで、クレーンが軋む音が聞こえ、金属音が鳴り響く。そんなこんなで作られた妙に浮いているほど新しい建物は、数年のうちに、中間を経ずに、突然にみすぼらしくて古臭いものになる。ほんの些細な隙間から雑草が茂り、いつの間にか外壁にヒビがはしっているし、ドアが歪んで開け閉めの度に軋むし、染みのような変な汚れが浮かんで落ちなくなる。そこを歩く人の、信じられないほど趣味の悪い服装、下品な顔つき。配管の不備のせいか、おかしな場所から水がしみ出してきて、いつもそこが湿っている。当初は斬新だったはずのデザインも、すぐに、ああ昔あんなの流行ってたよね、みたいな古ぽけたものになってしまう。その頃にはまた別の場所で何かが壊され・・・。
おそらくぼくは、そういう場所で、生まれて、育っているので、『普遍的なもの』なんか信じられないし、『自然な豊かさ』みたいなものに憧れる一方、そういうものを前にすると思わず"引いて"しまう。何か騙されているんじゃないだろうか、ここには大きな罠がかくされているんじゃないだろうか、などとどうしても疑ってしまう。ぼくにとっては、やはり確実に、豊かさ、よりも、不毛さ、の方が親しいのだろう。
しかし、だからと言って、ぼくは暴力や、がさつさを、肯定はしたくないし、できない。不毛であるのは仕方がないし、普遍性や超越性を信じられないのも仕方がない。それはぼくの生きる条件のようなものだから。でも、そんななかでも、それなりに繊細なもの、美しいものが可能なのではないか、というのが、ぼくの『希望』のようなものとしてある。
まあ、それがなきゃ、なんで生きてんだよ、ってことになってしまうのだけど。
今日は、キング・クリムゾン『RED』とか、くるりさよならストレンジャー』『図鑑』とか聴いていた。くるりは、シングル『青い空』に入っている3曲は文句なく素晴らしいのに、アルバム『図鑑』は、ぱっとしない、というか、小賢しいって感じの出来になってしまっているように思う。前作『さよならストレンジャー』は好きなので、かなりがっかり。まあ、てもまだ若いんだし、次に期待ってことで。
高円寺のビデオ屋で『ライブ・オブ・ウォーホル』とか『ロベルトは今夜』とか『100人の子供たちが列車をまっている』とか借りてくる。帰りの電車で今澤くんと会う。