朝、6時ちょっと前の空の色。濃くて鮮やかな群青色で、しかも恐ろしいくらいに透明感がある。ちょっと非現実的な色。こんな色、いままで見たことがない。生まれて初めて。つい、つい、小沢健二みたいに『神様はいると思った』とか、言ってしまいそうになるくらい凄い。でも、ぼくは絶対そんなこと言わないけど。夜中からずっと起きていて、ちょっと外に出たら、こんな空だった。でもそれは、2、3分しかもたずに、すぐにごく普通の朝の空に変わる。昨日よりさらに、ひどく冷え込んだ、氷点下の朝。
とうとう展覧会まで、2週間をきった。緊張すると、コーヒーとチョコレートの消費量がやたらと増える。食事もとらず、コーヒーとチョコばっかし。これじゃあ、いくらなんでもあんまりなので、野菜ジュースを飲む、と、腹がガボガボ。アトリエへ行く途中、ホームで電車を待っている時、どうしてもコーヒーが欲しくなった。でも、ブラックの缶が売ってない。仕方がないので、普通の缶コーヒーを買う。一口飲んで、買ったことを後悔する。なんでこんなに無駄に甘いんだ。こんなのコーヒーじゃない。口の中がべたべたする。一体誰がこんなものを望んでいるのか。なんでこんなものが堂々と商品になるのか。
アトリエで製作。といっても、もう、ほとんど手は入れずに、じっと眺めながら『本当にこれでいいのか』と、判断する、という段階なんだけど。で、ずっと作品ばかり観つづけていると、訳が分らなくなってしまうので、たまにアトリエに置いてある本を、ぱらぱらと見たりする。
リュミエール』の創刊号(こんなの開いたの何年ぶりだろうか)を、手にとって、クリント・イーストウッドのインタビューと、松浦寿輝の『クリント・イーストウッドば男のなかの男である』を読む。これはいい。無茶苦茶いいです。『クリント・イーストウッドば男のなかの男である』は、松浦氏が映画について書いた文章のなかで一番いいのではないか、とさえ思う。正直、この本が出た85年当時、高校生だったぼくは、何故、みんながそんなにイーストウッドを誉めるのか、よく理解できていなかった。『ダーティー・ハリー』は大好きだったけど、あれはドン・シーゲルの映画だし。
でも、『許されざる者』や『トゥルー・クライム』を観ることのできた現在では、松浦氏の判断の正確さが、はっきりと見えるようになった。あまりいいので、沢山引用してしまいます。
『男らしさとは、何よりまず、自分自身を他者の眼で見つめることのできるものが、そのあらゆる挙借にいて示す知的な慎みのことだ』
『(ガントレットで)何より素晴らしいのは、自分自身の肉体に穿たれてゆく無数の弾痕を飽くまで受け身に耐えつづけ、刻一刻昂進する自壊の感覚をきりなく引き延ばしてゆくラストのバスのあのゆるやかな前進運動であることは誰にも異論のないところだろう。イーストウッドは自分の方からは攻撃しない。相手が四方八方から撃ちこんでくる無数の銃弾の衝撃をじっとこらえながら、ゆっくりとゆっくりと前進しつづける。男のなかの男とはこういうものだと彼は信じているのである。自分の肉体の表皮があまりに過敏で脆弱であることを彼はよく心得ている。それは、ごくたやすく裂けてしまうし穴があいてしまう。・・・しかし、たとえ穴だらけになっても決してひるまず、視線と化した銃弾、銃弾と化した視線が降りそそぐ修羅場の真只中を彼自身もまた突き放した第三者の眼で自分を冷静に見つめながら、あくまでゆるやかに進んでゆくのだ。』
イーストウッドは遅い男だ。活劇映画のスターでありながら、彼は決して飛んだり跳ねたり走ったりの速度や敏捷さにおいて人から抜きんでようとなどとは思っていない。・・・イーストウッドほど見事にゆっくり歩ける男は、今日のアメリカ映画では他にはロバート・デ・ニーロくらいしか思い当たるまい。ダスティン・ホフマンだのロバート・レッドフォードだのにはついに身に着けられなかったこのゆるやかな歩行の官能性に達するには、リチャード・ギアでさえまだまだ男としての成熟が足りないのである。』
イーストウッドとは、動かないことによって活劇を演じてしまう希有の肉体なのである。』
『受け身の状態を持ちこたえつづけるクリント・イーストウッドが男らしいのは、それが、不潔なシニズムの臭いのする自己充足とはきっぱりと一線を画した、明晰な諦念であるからだ。自分を嘲弄しながらの明るく空しい自足による停滞を彼は最も嫌う。彼は、自分が頼りにできるのは、人生の折々の瞬間に何を選び何を棄て去るかをめぐって過つことのない、みずからの本能的な聡明さだけであることをよく知っている。それによって、潜在的なパッションを顕在的なアクションへと転じる反撃の機会を絶えずうかがいつづけること。あせることなく持続するそのゆるやかな歩みの途上で、「アウトロー」や「ブロンコ・ビリー」で描かれたような、世界の周縁に生きる小数者たち同士の、偶然の、だが力強い連帯といったものが徐々に実現してゆくかもしれない。・・・日々を生きてゆくうえで、われわれがイーストウッドの倫理性から学ぶところは大きいだろう。』
イーストウッドが、驚くべき傑作を次々につくってしまうような天才ではないことは、誰でも知っている。しかし、彼が、誰よりも聡明で、繊細で、高貴な存在であることも、疑い得ない事実だと思う。『日々を生きてゆくうえで、われわれがイーストウッドの倫理性から学ぶところは大きい』のだ。励まされます。