郵便局まで歩いてゆく途中に、『どっかーん。また泥棒だ、すぐ110番』『ほらあの家に泥棒が、はい110番』とか、そんな感じの手書きのポスターが、あちこちの塀や電信柱にべたべたと貼ってあるのを見た。確か1週間くらい前は無かったはずだから、この短期間に、余程集中的に盗難の被害があったのだろう。ここまでクドいくらいに沢山貼ってあるのは、注意を促すというより、明らかに泥棒に対する威嚇なんだろうけど、でも、『どっかーん』って一体何・・・。こういうの(過剰反応というか)を見ると、ある種の狂気のようなものを感じて、恐怖を感じてしまう。勿論、泥棒に対してではなくて・・・・。
鈴木清順の最高傑作『悲愁物語』とか、思い出してしまう。
別に、風邪をひいた訳ではなさそうだけど、体調は依然として良くない。身体が重いし、何かをしている途中で、ふと、ぼーっとしてしまい、そのまま動作も思考も止まってしまうことが、しばしば。で、いつの間にか、時間が経っている。やりかけのものは、そのまま中断。ちょっと前に、あまりに緊張した期間が続いた反動だろうか。展覧会の作品がなんとかなりそうなので、ほっとして、ボケてしまったのか。
まあ、あと2、3日はボケててもいいや。そしたらエンジン駈け直し。
午後から急激に寒くなる。雪もちらつく。
新宿まで出る。底冷えする電車のなかで、ほとんど寝ていた。眠い。とにかく少しでも時間があれば眠りたい。眠っているとも起きているとも言えない意識の中途半端な領域に、電車のなかにいる多くの人々のざわざわしたにぎわいが入り込んで、そこから目覚めの方へと持って行かれるかと思うと、結局また、そのざわめきを背負ったまま眠りの領域の方へと滑って入ってゆく。駅が近づいて目が覚めたら、読もうと思ってカバンから出しておいた本を、妙な姿勢で掴んだまま眠ってたのだった。
少しでも頭をしゃきっとさせようと、自動販売機で紙コップのブラックコーヒーと、キオスクで白いダースを買う。
新宿駅でJRから京王線へ乗り換える階段を下るざわざわした人ごみのなかで、ふと、唐突に『祈り』という言葉が浮かんだ。まあ、本当は唐突でもなくて、理由があるんだけど。(どんなに抽象的な概念であっても、それを思い浮かべたり、それについて考えたりするのは、必ずある必然的で具体的な場面、というのがあってのことなのだ。)
祈り、という言葉を思う時、ぼくはいつも保坂和志丹生谷貴志の書評で書いていた、次の文を思い出す。
『獄中闘争は他の闘争とはまったく違う闘争の形態をとる。闘争といってもそれは抵抗でしかありえないが、ともかく、その闘争をするのはあくまで一人一人であって、デモのように集団となることはできない。闘争する一人のできることなどたかが知れているけど、自分と同じ闘争をしている人間が同時多発的にいれば自分の行為は力となる---と想像することでしか闘争は始められないし、持続させることもできない。しかし、自分が闘争する同時刻に<同志>の闘争する姿をみることはできない。』
『行為の理念は個々の中にしかなく、伝達経路もなく、<同志>との目にみえる交渉もない。しかし自分が行為することと同じことを自分の見えないところで誰かが行為している(あるいは理解する)はずだという、それは芸術のことで、芸術とは結局のところそうでしかない。』(行為へと駆り立てるもの)
ぼくが祈りという言葉で考えることは、つまりは『自分と同じ闘争をしている人間が同時多発的にいれば自分の行為は力となる---と想像すること』でしかない。
r-Oさん、読んでいただけているでしょうか。こんなんじゃあ、『つづきをもっと』聞かせたことにはならないでしょうけど。ちなみにぼくは、祈りという『主題』には、興味はありません。行為へと駆り立てるもの、としての祈り、というか、祈り、は少しもアクティブな行為ではないのですが、人がある行為へと駆り立てられるとき、そこには祈りのような感情が必要なのではないか、という意味でとても興味がある、ということなのですが。