早朝の空、ぎりぎりに低い高度で、ゆっくりと飛行する、基地へと向かう米軍機。
眠い。いくら寝ても眠い。なんでこんなに眠いのだろう。ちょっとした空き時間、壁際に寄り掛かって、座り込み、そのまま少し眠ってしまったり・・・。(寒さで、目を覚ます。)
昨日の、獄中闘争としての芸術の話と関連して、まあ、近所の泥棒さわぎの話なんかとも多少関係があるとも思うのだけど、ドゥルーズ=ガタリの『リトルネロについて』から少し引用します。これは、芸術の様態を、古典主義、ロマン主義、近代の三つに分類したときの、近代の芸術について記述している部分。
『芸術家と民衆の関係は大きく変化したといえる。芸術家は自分の殻に閉じこもった<一なる個>であることをやめたにはちがいないが、それと同時に、民衆に呼びかけることも、既成の力としての民衆を引き合いに出すこともやめたのである。芸術家は、これほどまでに民衆を必要としたことはかつて一度もなかったのに、民衆が欠けているということをこの上なくはっきりと認識する。つまり民衆とはいちばん欠けているものなのである。通俗的な芸術家や民衆主義の芸術家が問題なのではない。<書物>は民衆を必要とすると断言するのはマラルメであり、文学は民衆にかかわることだというのはカフカである。そして民衆こそ最重要事項だ、しかし民衆は欠けていると述べるのはクレーなのである。』
確実に、昨日より今日、今日より明日と、世界が悪くなってゆく時代にいるという感触で日々生きるているほくには、ここで言われる『欠けている民衆』を『来るべき民衆』などと理解(期待)することはできない。それは、今ここでは決して見えてはいないけど、もしかしたらいるかもしれないし、いないかもしれない未知の小数の他者との、あり得るかもしれない連帯、としてしか想像できない。ぼくには自分自身の力によって何か大それたことができるなどという自信は全くないけど、あらゆる場所でばらばらに行われている、それぞれの些細な試みが、あるときふと何かの拍子で繋がってしまうとき、そこに何かが起きないとはかぎらないのだ。(ぼくには、ある強力な指導力をもった英雄的な人物が、世界を救ってくれる、という考えを、全く信用することができない。)そのときの他者とは、何も現在生きている誰かでなくてもよい。過去に存在した誰かであってもいいし、これから生まれるかもしれない誰かであってもよい。自分を開く、というのは大勢の他者を受け入れる(受け入れられる)ことではなくて、あり得べき対話可能性に対して開いている、ということだ。『われわれは自分に十分な力があるかどうか、確信がもてないのだ。われわれはシステムをもたず、複数の線と運動をもつにすぎないからである。』(D=G)。
でも、こういう大きな事を言ったりしても、何もなりはしないので、実際には、地味にアトリエに出かけ、地味に地味な作品をつくりつつ、地味に生活してたりするしかない訳ですね。最大限に努力しつつ。結局のところ、作品というのは、孤独のうちにつくられ、それぞれが孤立した観客によって観られるしかないのかもしれない、とも思う。では、何に対して、何処へ向かって努力するというのか。先が見えない。すくなくとも、この、先が見えない、ということだけは、誤摩化さないようにしなくては。中途半端な姿勢を保ったまま、年齢を重ねるのは、結構キツイですが。
すいません、へろへろです。頭、働いてません。自分でも何を書いてるのかよく分かってません。。。