国公立大学の入試、前期日程の2日目。用事で大学の近くを通ると、生協のやつとかいろいろなチラシをもらってしまう。さすがに入試当日なので予備校のパンフレットは配ってなかった。でも、帰りの時間には配ってるのかも。ぼくは受験生時代が長かったので、こういう雰囲気は他人事ではなく、切迫したものを感じてしまう。
このところ、やたらとダルかったり、眠かったりするのは、『考えただけで気が滅入ってしまうこと』がいくつかあって、その事を考えたくない、そこから逃れたい、という身体の無意識のうちの反応なのかもしれない。年齢を重ねるにつけ、少しづづ、キツイこととか、苦痛なこととか、あと単純に痛いこととかに対する、抗体が、心身とも弱くなっているような気がする。そのかわり、それらを巧妙にさけることか上手になってたりして。これは良く無いです。歳とって、ツラの皮だけ厚くなるってんじゃ、最低でしょう。
本当にここんとこ頭ボケボケなので、リハビリのために、大澤真幸『戦後の思想空間』を読んでみる。新書サイスで軽めだし、大澤真幸なので論理的な展開が期待され、それを追う事でリハビリになるかな、と思ったから。(リハビリのため、第1章だけ要約します。)
『第1章、戦後思想の現在性』では、先ず、日本の近代史か約60年周期でシステマティックに反復されているという説を、オウム事件大本教弾圧+二・ニ六事件との対応性や、大正期と70〜80年代との類似性等を根拠に示す。そしてそれによると、現在は昭和の初期、つまり戦前に対応する、と述べる。
その後、加藤洋典『敗戦後論』を読みつつ、戦争および敗戦について考察する。戦争というのは表現することの不可能性として現れる。しかし戦後には、その不可能性そのものが「排除 」される。ではなぜ終戦が、戦争中は確かに存在した思想表現の困難(不可能性)という条件を解消(排除)してしまうのか。ここで丸山真男の『作為』という理論が持ち出される。「なること」に対する「すること」としての作為。彼によれば日本の思想では、なること、つまり自然の論理しかないということになる。自然の秩序と道徳の秩序との間に断絶がない。しかし近代的であるためには、人為的な『作為』(すること)の論理が必要となる、と。
作為が可能となるための条件として、自己が二重化されていることが必要である。自己が、まさにそう「なって」しまうところの自然の自己と、そのような自己に対して選択的に関わる、他者の視点に立った自己と。そのとき、現在そうである自己が『欠如』として現れ、自己が想定している他方の自己が『理想』として現れる。そして大澤は、ベネディクト・アンダーソンや、ウルトラマン等の例を挙げ、戦後の日本にとってアメリカこそが『理想』として自己が想定する他者の視線、という位置にあった、とする。つまりアメリカという存在への絶対的な服従において、思想表現の困難(不可能性)が取り除かれたのだ、と。『戦後民主主義のもっている啓蒙とか批判というものは、作為というものを可能にしてくれる超越的な他者の視点に依存している。その他者の視点の社会的なリアリティは、アメリカが象徴するような他者によって与えられる。』
しかし、70年代頃から、『超越的な他者の視点』としてのアメリカが、充分に機能しなくなってしまう。ここで小島信夫の『抱擁家族』や田中康夫の『なんとなくクリスタル』が引かれる。例えば後者。主人公の女の子が、いろいろと浮気したりするのだけど、結局、今の彼が一番いい、この関係はかけがえのないものだ、ということになるのだが、どうもその彼には新しい恋人が出来たらしく、つまり私は「彼に捨てられるかもしれない」と感じている。つまり、日本とアメリカの関係も、アメリカの絶対的な善意によるものではなく、変わり得る--壊れてしまうかもしれない--関係として相対化される。(ここで日本は、アメリカという『男』に従属する『女』として描かれる)
超越的な他者--理想--としてのアメリカが機能しなくなることで、『理想』の時代が終わる。理想の時代が終わる、ということは、欠如の時代が終わる、ということでもある。つまり欠如とは、常に理想の側からみた欠如、であるのだから。ここから、70〜80年代に特徴的な、自己充足的で、欠如ではなく過剰な快楽に準ずるという時代へと移って行く。つまりこの時点で戦後が終わる。(村上龍の『トパーズ』のような)
しかしここまでではまだ現在まで至ってなくて、今度は『新世紀エヴァンゲリオン』から、「人類補完計画」が、抽出される。ここで再び、補完されるべき、精神的な欠如が浮上しくる。しかし、欠如の時代が終わった後の欠如とは何か。それは欠如の欠如である、というオチ。
『欠如しているとすれば、それは欠如そのものです。何も欠如していないことに、欠如感を覚えるのですね。欠如が克服されたとき、今度は欠如がまさに欠如であるということに欠如を覚える段階がやってくるんです。それが現代です。』
うーん、社会学というのはこういう風な論理の立て方で歴史を記述しようとするのか。この第1章ではまだ、戦後の歴史が概観されるという段階で、2章、3章と積み重なることで、論理が立体化されるという構造をこの本はもっているのだけど、長くなってしまうので要約はここまで。(2章では、現在と対応する時代である戦前にあった『近代の超克』論の代表的な3人の哲学者の論理がいかに資本主義の構造とパラレルであったかを示すと同時に、資本主義の構造=安定した超越性が不可能な事、を図式化する。3章では、超越的な他者の不在の時代である現在について、ハイデカーの精神、ナチスのガス、オウムのサリンやVXガスなどのイメージが重ね書きされ、彼らによるシニカルな超越性が批判的に考察される。)
ぼくにはどうしても、現代が、欠如の欠如によって欠如感がもたらされている時代だ、という纏めかたには違和感を感じる。エヴァ的な欠如感というのは、ほんとうに欠如の欠如によるものたのだろうか。この本はとても面白い部分があるし、勉強にもなるのだけど、こういうきっちりとした『社会学的な』論理立てが、かえって現実に、今、おこりつつあることを見えなくしてしまっているように感じる。対象に肉迫しながらも、大事なところで空振りしてしまっている、という印象。
この本の第3章は、最も構成がゆるく、きっちりと決まったオチ(結論)もなく、問いは開かれたまま終わる。大澤はここで、人間にとって自由の可能性があるとすれば、『超越的な他者を確保しておくこと』が決定的な条件だと述べる。超越的な他者がいなければ、歴史も過去も不可能となり、我々は、目や耳を塞いだまま記憶喪失状態でさまようしかない。しかしもはや超越的な存在は空虚でしかない。我々はそれにどう対応すればよいのか。オウムやナチス天皇ファシズムでは駄目なことは分りきっている。ではどうするのか。空虚をまともに引き受けるしかないだろう。一体、どのようにして・・・。
最後に、この本の中でもっとも印象的だった部分を引用する。「そんなことぜんぜん信用していないけど、あえてそうするのだ。」というシニズムについての記述。例えば、こんな株は下らないと思っていても、それを欲している他者がいれば、その株は値上がりするので、それを買うことに意味が生じてしまう。
『真にむずかしいのは、自己への執着から離脱することではありません。他者への執着のほうがもっと逃れがたいのです。他者の呪縛は、自己のアイデンティティーへの執着よりもずっと強いわけです。』