昨日、『戦後の思想空間』を読みながら思っていたことは、歴史的な過去の事柄に関する分析や記述には、とても強い説得力を感じるのだけど、ことが現在に近づくにつれ、何やら理論の構造が空疎なものになり、そこに強引に整合した理論を当てはめようとして、空を斬っている、という感じだった。しかし、それは考えてみれば当然のことで、現在、という言葉がどういうことを意味するのかといえば、それは、なにかが進行しつある時、あるいは、なにかしらの行為を行いつつある時、つまり何かの最中というのが、現在という時間の意味で、だからもう終わってしまったものは、いくら時間として今と近くても、それを現在と感じることはできない。何かが進行しつつある、というのはだから、先が見えない、どうなるか分らない、把握し難い、ということで、つまり現在が先が見えない時代だとかいうのは、AはAである、というのと同じくらい当然のことなのだった。
歴史的な過去の出来事が、構造として整合性のあるものに思えるのは、それがもう終わってしまったことだからで、事実、それが現に起こっていた時間においては、常に、どちらに転ぶか分らない、先の見えないほとんど博打的な判断による行為の積み重ねであったに違いなくて、それは後からみると、始めからそうでしかあり得なかった、なるべくしてなった事柄のように見えてしまうのだ。勿論、過去に起こったことの意味をきちんと分析し、記述し、理解することはとても重要なことなのだけど、それがそのまま現在に通用するしは限らない。(つまりそのことが、ぼくの社会学的な方法論への違和感な訳だ。)
だからある理論なり形式性なりが、現在あるいは未来に向けられようとするときに必要なのは、<使える>かどうかということで、何かしらの行き先不明の行為や判断のための仮設の足場のようなものとして、あるいは作業を持続することを可能にするような『信仰』(これはかなり不適切な言葉だけど、他にみつからないからとりあえず暫定的にこう言っときますが)を成立させる強い(または微かな)リアリティを告げるものとして、あるのでなければならない、と思う。
黒沢清の『カリスマ』が昨日から、とうとう公開されたし(はやく観たい、でもいつ観られることか)、青山真治の新作『ユリイカ』は、3時間半ちかい大作で、しかも凄いものらしい、という噂は流れてくるし、カン・テイファンのライブはもうすぐだし、(ついでにぼくの個展ももうすぐだったりする)興奮せずにはいられないことが沢山あるのだけど、ぼくの頭は相変わらずボケボケ状態で、時間が少しでもあると眠ってしまったりする。でも、なんとか少し本を読んだりできるくらいには復活してきたみたい。それにしてもぼくの生活の先行きはみえず、2、3ヶ月後は一体どうしてるのかも定かではない状態。うーん、これも現代を生きている証拠かって、馬鹿なことを言ってみたり。