ソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た

ビデオを整理していて出てきたソクーロフの『精神の声(3話)』を久しぶりで観た。このどうしようもない退屈さと、でろっとした気持ち悪さはやはり素晴らしい。この退屈で淡々とした時間は、しかし決して一様なものではない。基本的な流れとして、タジキスタンの国境附近で駐屯する兵士たちの日常の時間が捉えられているのだけど、その兵士=人間の日常という「基本的な線」はノイズのようにそこに差し挟まれる様々に異質な時間によって埋め尽されて、見え難くなってしまうほどなのだ。淡々としていながら、リズムは常に微妙に変化しつづけている。それは作品全体として調整されたり、効果を狙って構成されたリズムの変化ではなくて、様々な異質なものを受け入れ、それらに向かって開かれ、それらを平然と接続させてしまうような懐の深さやおおらかさによっているように思う。そしてそれは、ビデオという装置とも深く関わっている。タジキスタンの乾燥して荒れた風土は、ビデオ特有の電子的でのっぺりとした画質によって妙に平板なトーンへと変換されてしまうのだが、そのことによって、恐らく現実にその場に立つのとは全く異質のリアリティーが浮かび上がっている。ビデオによって捉えられた自然、気象の変化や大気のなかの湿り気の変化、風向きがかわり、砂ぼこりが舞い上がり、雲がもくもくとあらわれ、雑草がもくもくと茂っている様は、自然とも人工とも違う、その中間にだけ発生するようなジャリジャリとした何ともいえふない触感をもっている。そして何よりもビデオの特性を生かしていると思えるのは、ファインダーも覗かないで回しっぱなしにして撮影されたとしか思えないショットが、ある意図をもって(しかし、その意図もよく分らない場合が多いのたが)撮られたショットが混在していることだ。ビデオカメラを扱ったこかある人なら誰でも、いつの間にかスイッチが入ってしまっていて知らないうちに撮れてしまっていた映像の不思議な生々しさに驚いたことがあるのではないか。その誰でも知っているはずの生々しさ(あるいは寒々しさ)を、こんなにも見事に意図的なショットと接続して作品化した例は、ぼくの知っている限りでは他にはない。(おそらくソクーロフは、撮影前にそれを狙っていた訳ではなくて、撮影の後、自らが撮ったビデオを観ることで、あるいは編集しつつあるなかで、それを発見したはずなのだ。)それはつまり、偶然によってしか撮影することのできないような「異質なもの」と「作品」との接続なのだ。しかしそれを受け入れることによって、作品は作品としての持続性や統一性を失ってバラける一歩手前まで行ってしまうのだが。機関銃を撃っている兵士のショットの後に接続された、カメラの前を横切るバッタの映像の驚きは、それがバッタを撮影しようと思って撮ったのでは決して撮ることの出来ないであろう、まさに置いてあったカメラの前をたまたまバッタが横切ったショットだからであって、だからこそそこに、人間が感知することの出来ない、人間とは無関係の時間が露呈してしまうのだ。そしてそれが、気象の変化や、個人の力を超えた戦場という場所、その戦場での人間の営み、そこに生えている草花、などの映像と平板な電子的ビデオ画面のヌラッとした質感によって平然と接続されてしまうのが凄いのだ。この作品を構成する映像たちは、どこまでがきっちりと意図されて撮られていて、どこからが適当に流して撮られたのか判然としないし、何よりこの『精神の声』という作品自体が、何を狙って何を描こうとしているのかよく分らないのだが、その分らなさのなかで幾つもの「異質なもの、異質な時間」が錯綜し、結びついていて、そこから何ともいえない気持ちの悪い触感がヌラヌラと染み出してくるのだ。この作品が何か「潜在的なもの」を「顕在化」しているとすれば、それはおそらく「ロシア的な魂」のようなものであるよりもずっと深く、「ビデオ的な装置」のもつ潜在性であるように思う。こんなことを言うとソクーロフ(やその信者)は激怒するだろうが、この作品にはアダルト・ビデオから感じられるものと近い感触さえ感じられもするのだ。AVを支えている物語は、うんざりするようなマッチョで性器中心主義的なイデオロギーである訳だが、実際のその映像を注意深く眺めれば(しかし、AVを素面で観るというのは、全く寒気のするような「痛い」行為なのだが)、そんな自らの物語を裏切って解体してしまうような(ポルノグラフィーとしての存在価値を危うくするような)無気味な感触やノイズに溢れてもいるのだ。AVの観客は、自らがマッチョなイデオロギーに欲情しているつもりで、実は全く別種のものに日々蝕まれている訳なのだ。そしてその「別種のもの」はソクーロフと全く無縁という訳ではないのだ。