朝、起きて、そのまま髪を切りにゆく。
今日初めて知ったこと。動物占いの動物は、全部で12種類あって、ペガサスなどの架空の動物も混ざっているらしい。(美容師情報)
帰って、午前中のうちに、溜まりまくっていた洗濯物の処理。妙に暖かいので、やたらと眠い。まあ、寒くても眠いのだけど。
午後から画材屋に買い物にゆく。展覧会の会場にドローイングを置いておくために、それを収納しておくカルトンを買う。でも、このカルトン、作りがやすっぽい上に、『SEKAIDO』という文字が思いっきり書かれている。結構恥ずかしい。
本屋を覗く。『表象のディスクール1・表象-構造と出来事-』を、ただ、東浩紀の『想像界と動物的通路-形式化のデリダ的諸問題』というたった20ページの論文を読みたいためだけに買ってしまう。3200円+税。その他は、目次をみた限りでは、あまり食指が動かされない。で、帰って早速、それを読む。
想像界と動物的通路』では、先ずハイデカーとラカンに共通する論理的形式として、《人間は確かに世界全体を産出する、しかし他方で人間は、日常経験が教えるように世界のなかの一事物でもある》というメタ・レヴェルとオブジェクト・レヴェルとに同時に位置することによる、不可避的な『綻び』を探究する、という構えを指摘する。そのような厳密な形式化によって、彼らの思想は人間中心主義的なもの(ギリシャ哲学からカント、フッサールに至る)から離れることができる。
しかし、ハイデカーによる『動物』ラカンによる『想像界』という概念が、彼らの厳密な形式性を揺るがせ、破綻させかねないものとして提示される。例えばハイデカーの動物。彼は、『物』と『人間』を厳密に分け、石(物)には「 世界がない 」が人間は「 世界を形成する 」とする。つまり物と人間との間には絶対的な差異がある。しかし動物について「 動物は世界が貧しい 」と言うとき、物と人間との間に、その中間のものとして、動物が置かれてしまうと、絶対的であったはずの物と人間との差異が、あたかも程度の差異であるかのように見えてしまう。ここで、ハイデカーの人間中心主義への回帰(つまりそれこそが、ナチスへの共感へとつながる)の危険性があらわになる。
次に、ハイデカーやラカンが、何故あんなにも形式的な厳格さを持つ事ができたのか、という理由について、彼らが人間は世界を「 として 」構造で理解している、と主張していることにある、とする。人間は花の雄しべを雄しべとして了解しているが、働きバチは花の色や香りを知っていても、それを雄しべとして知ることはできない。逆に言えば人間はアプリオリに、色や匂いを、花の色や匂いとして了解してしまっている。つまりここで、言葉の重要性が指摘される。ハイデカーにとって『言葉は存在の家』であるしラカンにとって『無意識は言語のように構造化』されている。それに対して動物や、未だ想像界のなかにだけ住んでいる幼児などは、世界を『イメージ』によって了解している。つまり、言語の特権化による厳密な形式化を破綻させるものとして、イメージによる世界の把握という側面が指摘されている。シニフィアンはいつも宛先を間違わないが、イメージは常に行方が定まらない。
ここでようやくデリダによるエクリチュールという概念が、ハイデカーやラカンに対してもつ可能性が示される。ここでは勿論単純に言語の優位からイメージの優位へと移項することが語られる訳ではない。(それこそが、ナチズム=生の哲学を呼び寄せてしまうものなのだから)『シニフィアンシニフィアン(記号)であるためには、必ず何らかのエクリチュール(物質的側面)をもたねばならない。しかしエクリチュールはつねにイメージへと転化する危機を抱え、そのことで逆にシニフィアンの同一性は限定される』のだとしたら、哲学や精神分析の課題は、同一性の欠如から同一性の支配へ、イメージからシニフィアンへの理論を洗練させることに向かうのではなく、『想像界象徴界のあいだの往復運動、イメージ=表象代理(想像的対象)とシニフィアン=表象代理(象徴的対象)のあいだを欲動が移動し、一方では欲動そのものが解体され、他方ではふたたび「 同一的なもの 」へと纏めあげられる、その運動を掴まえる分析装置を整える必要があるだろう。』というのが一応の結論となる。
ここで東は『存在論的、郵便的』での主張に別段それほど新しいものを付け加えている訳ではないと思うけど、『存在論的、郵便的』では、同一的なものを破るのは、複数のメディアによる速度の差異として捉えられていたのが、ここではより動物的=幼児的な側面をもつ、『イメージ』というものの、危険性というか、「 宛先に届かないかもしれない 」性が具体的に分析の対象となっているところが、ぼくなんかにとっては興味深い(一応、イメージを取り扱う人間として)。人によっては、これは理論的に後退しているとか言うのだろうけど。
今日も相変わらず眠い一日。なかなか気合いが入らない。
そういえば、昨日の晩、田中小実昌が亡くなったというニュースを聞いた。アメン。