夜中じゅう、昨日もらった『大日本樹木誌・巻の1』をペラペラと、あちこちめくっては眺める。あまりよく眠れない。
夜が明けるのがすっかり早くなった。6時前にはもう完璧に朝。ウグイスの声を聞く。歩いていたら、生け垣のなかから急に小さな鳥が飛び出してきて、ピイピイいいながらすぐ目の前を通り過ぎた。モクレンの花が乱れたように散っている。
ぼくの好きな詩に、松浦寿輝の『李』という詩がある。『わたしは無関心な通行人としてひっそりと裏道を伝い わたし自身の飼っている痩せて薄汚れた猫と擦れ違う 猫もわたしも素知らぬ顔で』『貧血のめまいをうっとりとこらえ わたしは駅へと向かうのだろうか ただ無縁のひとびとのせわしない行き交いを見るためだけに』この、世界の無関心(わたしの、世界に対する無関心ではなく、世界の、わたしに対する無関心)を、震えるような繊細さで描いた、自閉症的というよりも離人症的な詩で、唯一、なまなましい/なまめかしい、他者=異性の存在の気配を運んでくるのは、風にのった花粉なのだった。
『ーーああ おんなのひと 風にこの悩ましい花粉をのせたのはあなたですか』
でも、ぼくにとっては、花粉は、なまめかしい異性の気配などでは全くなく、ただ、目のかゆみや、くしゃみ、鼻水、といった散文的で鬱陶しいものを運んでくるだけなのだった。
それでも、今日は昨日に比べると、まだ少しは楽かも。しかし毎日、微妙に症状が違うってのも、困ってしまう。風が強く吹く日は、花粉も多く飛ぶ。
夜。OKくんの送別会。調布にて。
電車に乗っていると、いかにもって感じのヤクザ風の男が乗ってくる。決して幹部とか、そういうエラい人ではなく、チンピラのまま年齢を重ねてしまったという感じ。男は、ホームの階段の途中でタバコに火を着け、その時発車のベルが鳴ったので急いで乗り込む。いくらなんでも車内でタバコはマズいと思ったのか、火をつけたばかりのタバコを線路へとぞんざいに投げ捨てた、と、ほぼ同時にドアが閉まる。男は肩をいからせ、がに股、大股でのしのし歩いて席に座る。
今まで思いっきり横柄だった男は、座ったとたんに、何となく居心地が悪そうというか、所在無さげな感じになる。背中をまるめ、気のせいか小さくなったような感じ。目をぱちぱちさせたり、顔をしかめたり、肩をまわしたりしていた男は、あまりにも手持ち無沙汰だったためか、おもむろに腹巻きから、かなり分厚い札束を取り出して、札を数え始める。まあ、分厚い札束といってもみんな千円札たったけど。
こういう感じはどこかで見た事があると思ったら、ビートたけし北野武監督作品で演じるヤクザが、ちょうどこんな感じに、所在無さげなのだった。特に『ソナチネ』のたけし。何というのか、『自分が存在してしまう』ということの重さを、どう処理してよいのか分らない、といった風情。こういうリアルさを出せる俳優は、多分日本ではビートたけしだけなのだろう。
年齢を重ねる、ということの苛酷さというか、痛ましさのようなものを、他人事ではなく、ガツンと感じてしまう。