冷たい雨の降る、寒い日。今日は忙しいことはなにもしない。
金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』を読む。電車のなかで、と、部屋でビール飲みながら。
久々の目白物、しかも『小春日和』の続編。この小説の桃子と花子は、ぼくとほぼ同年代。もし、雑誌で発表された時点をリアルタイムとすれば、97年に30歳の誕生日を迎えるこの2人はぼくと全く同じ年齢になる。まあ、ぼくは金井美恵子がデビューした年に生まれたのだから、この一致は決して偶然ではないだろうけど。で、10年前に『ポスト・モダン・ガール』だった2人は、そうなるべくしてなった、という10年後を生きている。
金井美恵子の読者となって10年ちょっと(最初に読んだのは福武文庫から87年に出た『文章教室』で、蓮實重彦による全くふざけたインタビューが載っていた。『小春日和』もほぼ同じくらいの時期に読んだはず。)、しかも自分と同年齢の登場人物の10年後についての小説、ということで、どうしてもぼく自身のこの10年を、読みながら意識せざるを得なかった。言ってみれぱ『猫の柄も昔、ここに住んでいたタマとは違うし、あたしたちも、もちろん変わったのだけど、(・・)緊張感と奇妙な倦怠と、曖昧でぼんやりしたままにしておきたいと思っていた未来への漠然とした不安やらが、何一つ変わらず、十年という時間を無視して、いきなり、まるで地続きというか一つながりの時間だったかのようによみがえり、私は、ちょっと、ぞっとした。』
そして桃子は30歳になったというのに、定職にもつかず、あの『タマや』にも出てくる紅梅荘に住んでいる。この小説は勿論、これだけを独立して読もうという読者に対しても開かれているのだけど、『小春日和』を10年くらい前に読んだ、主人公と同年齢の読者としては、この小説のなかに含まれている10年という時間の厚みそのものを読み込もうとしてしまう。10年前にああだった人物は、10年後には、当然こうだろう、という、変わったと言えば言えるし、相変わらずとも言えば言えてしまう桃子、花子、おばさん、は、相変わらずだべって、くっ喋り、食べては飲んでいるのだが、それを相変わらずと言ってしまっていいのか、確実に10年の時間は流れているのだし、10歳、歳をくっている。読者であるぼく自身も、10年前とほとんど変わらない生活をしているのだけど(ということは、かなり特異なことなんだろうけど)、それでも10年の時間は流れているのだし、10歳、歳をくっているのだった。作家の、同時代の読者である、というのはつまり、こういうことなのだろうか。(ああ、これこそが『風俗小説』)
『小春日和』に比べて、明らかにセンテンスは長くなったし、横道に逸れる度合いも高くなっていて、どこまでもだらだらとお喋りがつづくかと思うと、いきなり、はっと息を呑むような省略によって、物事があっけなく進行してゆく。ある部分が引き延ばされ、ある部分はすぱっと省略されるという、部分、部分の配置の大胆さなんかをみると、登場人物に流れた時間だけでなく、作家自身のこの10年の様々な仕事の厚みというのも、当然感じさせる。
『小春日和』同様、作家である登場人物『おばさん』によるエッセイが引用されているのだけど、そのエッセイを受けての、女4人の飲み食いしなからの怒涛のお喋りシーンが、この小説の最大のヤマ場といえばヤマ場で、こういう場面を堂々とサビにもってくる大胆さと、それを成立させてしまう力量とには、舌を巻かずにはいられない。(岡崎さんという新しい魅力的な登場人物が、このヤマ場のシーンをより複雑で豊かなものにしている。)そして最後には是非あの人に登場してもらいたい、という人物が、ちゃんと最後に登場してくれて、ある種の不安とともに幕を閉じるのかと思われた小説を、楽天的で幸福なものにして、幕を引いてくれる。颯爽と登場し、幸福感とともに幕を引く、そんなことができるのは、あの人しかいないでしょう、あの人しか。
面白かった。凄く。