●柴崎友香『フルタイムライフ』は面白かった。おそらくこの小説は、掲載誌の性格や連載という形式にその「内容」が強く制約されて書かれたのだと思え、必ずしも柴崎氏の資質が充分に発揮されているとは言えないかもしれないのだが、そのことが返って、柴崎氏の小説にあらたな広がりをもたらしたように思える。確かに、『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.37.html#Anchor2984985)は素晴らしい小説なのだけど、そこに登場する人物像はあまりに限定されていて、その限定的な世界の狭さは、『青空感傷ツアー』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.36.html#Anchor546061)『ショートカット』などになってくると、どうしてもだんだん苦しく、行き詰まってくるように感じられてくる。ぼくはこの日記で以前、柴崎氏の小説の登場人物について以下のようなことを書いた。《この小説(『青空感傷ツアー』)の二人の主な登場人物は、反省も学習もしない。この二人の「内面」は、彼女たちを取り巻く状況と分離しては存在しないと言い直すべきだろうか。彼女たちにとって、「気持ちがかわる」ということは、そのまま、居る場所がかわるということであり、天気がかわるということであり、会う人がかわるということである。それは、場所や天気や会う人がかわってもなお持続しつづけるものとしての内面(としての「私」)がきわめて希薄であるということだと言える。(略)それは逆に言えば、内面としての持続などなくても、「私」が存在しているという気分は揺るがない、ということであるように読める。》《柴崎氏の人物は、環境による入力に対して、ある「偏り」を持った出力(気分や行動)を示すことで「ひとつの資質」を(そのまわりの環境と同時に)表現するような装置として置かれているように思える。柴崎氏の人物は、複雑な記憶や経験によって得られるような奥行きや深さを排することで、ひとつの資質=傾向としての「人格」という形象を示そうとしているのではないか。(73年生まれであるそうだから、決して「若い」というわけではない柴崎氏が、小説の登場人物として「若者」ばかりを選ばなくてはならない理由がこの辺りにあるだろう。環境と共振することでたちあがる「資質」を鮮やかに捉えるためには、自律し確立された内面や複雑化に重層化された記憶ではなく、それらは出来るだけ単純に縮減されたものとしてあることが望ましいのだと考えられる。)》だが、このような人物を「現実的な」設定のなかに置こうとすれば、その人物像や人物の居る環境はおのずとかなり限定されたものとなる。『フルタイムライフ』も、その主人公は基本的に柴崎的な資質を持った(どこか浮き世離れした、浮遊する)人物なのだが、彼女が置かれる環境がいままでの小説とは異なる。彼女はちょっとしたきっかけから梱包器機会社の事務職に就職し、フルタイムで働くことになる。それは、美大出身である主人公にとってそれまでと全く異質な世界ではあるが、事前に考えていた程には、嫌でもなければ大変でもない。(柴崎的人物は、環境にはいつも割合すんなりと対応出来るのだ。)かと言って、その環境に満足しているというわけでもない。今までの柴崎氏の小説は、環境から浮遊した人物の、その浮遊感と場所の移動によって成立していたと思うのだが、ここでは主人公がひとつの場所に留まり、それによってある程度の内面的同一性もみられ、変化(成長?)の兆しのようなものさえ感じさせる。しかし主人公は、その場所に「留まって」はいてもその一員としてそこに「入り込む(捕捉される)」るまでにはいかず、その関係はやはり不安定で浮遊したままだと言える。今まで親しんだ環境や人々とはまったく異質なものの上に、留まりつつも浮遊する。そして、浮遊したままでありながら僅かな変化をみせる。この微妙な感じが、具体的な事柄の丁寧な描写を通じて描かれている。そしてこの「感じ」は、多くの人にとってとてもリアルなものなのではないだろうか。