当然、作品はある特定の文脈のなかで...

●当然、作品はある特定の文脈のなかでつくられる。現在つくられる作品は、現在という時代と不可分なものがある。あるいは、ある作品は、ある特定の文化的な趣味や洗練のなかで(あるいはそれに対するカウンターとして)つくられ、それとは切り離せない。しかし、ある作品が「作品」として優れているとしたら、それはその作品がつくられた文脈や文化的趣味の外に置かれ、その文脈を理解しない人に観られた時も、人の関心を惹き付けるに充分な何かがあり、その「何か」は人の感覚や思考を刺激するはずだと思う。そして、作品の「質」というのはそこに関わる。(作品の「質」は文化的な洗練とは別のものだ。)ある「質」をもった作品は、何の注釈もなしに美術館の片隅にポコッと置かれていても、「気がかりな物体」(ローゼンバーグ)として感覚に何かしらの抵抗を生じさせ、それをじっくり眺め、それについて考えようとする人の「追求」に応えるだけの、手応えというか、ある「充実」を有しているはずだ。勿論、ある作品がつくられ、受容された、歴史的な背景を知ることは、その作品をより良く、より深く理解するためには有効であり必要であろう。しかしそれは、最初にある感覚的な引っかかりや、それについての手掴かみの(予備知識なしの、野蛮な)思考(追求)があった上で(つまり、手応えや抵抗としての「質」が感受された後で)、それに導かれ、それに関する「手助け」というか、それを厳密にするためのものとしてあるのでなければ、悪い意味でのアカデミズムに堕するだろう。(そういえばグリーンバーグが『アバンギャルドキッチュ』で、キッチュはアカデミズムと共にある、というようなことを書いている。)そのような意味で、「作品」は決して「批評」ではない。勿論、ある作品がある文脈のなかで批評的に機能することはあり得るし、それに意味がないということではないが、それは作品の「質」とは別のことだ。(作品の「質」とは、たんに感覚的な「快」や「美」のことではなく、感覚的なものがどのように思考や欲望と絡んでいるのかという、その絡み合いのあり様の総体のことだといえるのではないか。)
●展覧会に画家の北川聡さんが来てくれて、主に作品のサイズやフレームについて話す。北川さんはぼくの作品について、フレームやサイズの選択が気になり(つまりそれに違和感があり)、それが自分が作品をつくる時のものとはかなり「違う」ということを言っていた。それはぼくにも感覚的によく分かることで、北川さんが作品をつくる時の、空間のなかに(眼によって)身体が入り込んでゆくという感覚と、ぼくがやろうとしていることでは違うと思う。それはおそらく、セザンヌと、ポロックやロスコとの違いとも言えて、例えばセザンヌの場合は、作品のサイズはその作品が内包する空間の大きさと「ほとんど」関係がないが、ポロックやロスコにおいては、作品の物理的な大きさは、その作品のあらわしている空間性と密接に関係する。(マティスはその中間にあって、とても中途半端というか、捉え難い。)で、ぼくはセザンヌみたいに、フレームなんて既製品で充分だという感じで、もっと極端な言い方をすれば、たまたまそこにあったキャンバスなり紙なりで充分だという風に描けなければ(つまりそのなかに「空間性」を開けなければ)、苦しいと言うか、絵画は先細りになるしかない、という感じがあるのだ。それに対し北川さんは、それは分かるけど、本当にそんなことが出来るのか、というようなことを言っていた。確かに、セザンヌにおいてそれが可能なのは、セザンヌが具体的なイメージを描いていて、つまりそこには描かれる対象の持つ空間性(との繋がり)があるからで、素朴に「対象」(のイメージ)を描くことが出来ないとすれば、それは難しいのかも知れない。北川さんは、ぼくだって目の前にある林檎を普通に(素朴に)描きたいとか思うけど、そういうわけにはいかないでしょう、と言う。「そういうわけにはいかない」という感覚は凄く分かるし、「そういうわけにはいかない」という抑圧が解除されてしまうとしたら、それにはぼくも強い抵抗を感じるのだけど、なぜ「そういうわけにはいかない」と感じるのか、本当に「そういうわけにはいかない」のか、ということは、もっと突っ込んで考えられなければいけないという感じが、ぼくにはとても強くあるのだ。ここには、絵画の空間的なイリュージョンが、イメージ(対象)とどのように関わるのか、という問題と同時に、一人の画家としての自分が、絵画の歴史に対してどのように振る舞うべきかという、とても難しい問題がある。