キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』

夕立。激しい雷。それが止むと、空は澄んで青く明るいのに、地上はへんに黄色っぽい、ぼうっとした光につつまれていた。どこから光がきているのか分らないような、ものたちが皆、内側から黄色っぽく発光しているような、無気味な感じ。澄んだ空には、きれいな虹。地上と空とが切り離されて、全く異なった光の状態になっている。
ビデオでキューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』。うーん、これは何と行ったら良いのか困ってしまうような映画。でも、ぼくが観たキューブリックのなかでは、間違いなく一番好き。何とも凡庸な映画で、キューブリックみたいに気取ったスタイリストが、ここまでの凡庸さを自分に許した、というのが、先ず凄いと思う。ニコール・キッドマンの最後のセリフなんて、全然、キメのセリフになんかならないような、ミもフタもないというか、ほとんど冗談すれすれで、でも冗談としても決まってないので、簡単に冗談と言って片付ける訳にもいかない。
乱暴に要約すれば、何の盛り上がりもないしカタルシスもなく、ただ、性的な妄想を抱えたトム・クルーズが夜の街を彷徨うだけ、という映画。何不自由なく、リッチな医者として幸せに暮らしていたトム・クルーズの世界に、妻の言葉によって亀裂がはしる。自身満々のリッチマンは、一気に情けない妄想男に成り果てて、現実とも妄想ともつかない夜の街で、様々な人物とすれ違いながらも危なっかしい足取りで歩行する。しかも、その間の演出は、ホントにキューブリック、と疑いたくなるほど、良く言えばシンプルだし悪くいえば何の工夫もない。ほとんど冴えたところがなく、しかしお金だけはたっぷりかかってる。ダサいズーム、広角レンズとスティディカムを使った安易な長回し&移動撮影。説明的なインサート。多用される無駄に長い歩いたり車に乗ったりの移動シーン。あったりまえの音楽の使い方。しかしこの凡庸な長い彷徨の過程(時間)こそが、今までのキューブリックにはなかった何かを映画のなかに招き入れているのだと思う。『ロスト・イン・アメリカ』のなかで青山真治が『「人生」の出現』とか『ディオニッソス的な微睡みにおてい初めて、人は自己(内部)として他者(外部)と巡り会う』とか言ってるのは、その通りだろうと思った。
冴えない彷徨を続ける映画はしかし、終盤になってやや引き締まった感じになる。それはトム・クルーズが、怪し気なパーティーに潜入した時、彼の身替わりとなった女性の死体と、病院で対面するシーンから、真っ赤なビリヤード台のある部屋でのトム・クルーズシドニー・ポラックとの対話のシーンあたり。それまで夢とも現実ともつかないあやふやな出来事の連なりだった事柄が、女の死体によって、あるどうしようもない、否定しがたいリアルなものとして目の前にあらわれる。その時の死体の示し方や、死体に対してトム・クルーズのとる奇妙な振る舞いなどの演出は、嫌いな監督ではあるけど、さすがと思わせる。シドニー・ポラックとの対話のシーン(真っ赤なビリヤード台の上に緑の傘のついた電灯のある部屋、というのは多分、ゴッホの絵を参照しているのではないかと思う。)は、説話的に考えれば、説明的なシーンなのだけど、丁寧な演出と、トム・クルーズの何とも言えない表情などによって、それ以上の存在感を際立たせ、女の死体で出来事の確実な現実感を得たはずが、もういちどあやふやな方向へ押し戻され、宙に吊られる、ということになる。
最後に男は妻に全てを告白し、もともと妻の言葉によって揺らぎほころんだ男の世界は、再び妻の、私たちは危険な冒険をともかくやり過ごした、とか何とかいう言葉で見事に修復されるのだけど、最後の最後、決めのセリフが『ファックしましょう』では、我々はそれを簡単に信じる訳にはいかない。
ぼくはこの映画を決して傑作だなんて思わないけど、キューブリックのような人が、死ぬ直前になって、ともかくもこういう地点にまで辿り着いた、ということに対しては、やはりとても感慨深いものがある。つーか、人生って一体何よ、なんて馬鹿げた青臭いことを、ついつい考えてしまったのだった。