新芽が赤くなる生け垣の木。真っ赤になっていた。陽によく当る部分は赤が焼けた色になっている。
あたたかい日。空には薄っすらと雲がかかっている。太陽もぼやけている。ガァーッという低空飛行の米軍機の音が響くが、雲の為、姿は見えない。薄着の人が歩いている。風が強い。ほこりっぽい。汗をかく。
緑や黄緑の葉、黄色や赤の花、そのなかで一際浮き上がって見える、薄紫の花。(例によって名前は知らない。)枝は細くスジばっていて、数が多く、反り返るようにいきおいよく上に向かっている。枝の勢いある上への動きを抑制するように、ぼやっとした薄紫の花が、枝の細さに対して、垂れるように沢山ついている。そこに木漏れ日が不均一に当っている。
驚くべき色、驚くべきイメージ。
そのイメージを、記憶しようとする。なるべく言葉を介さないでイメージを記憶する。イメージとは視覚的なことだけではない。その時その場にいてそれを見ている、ことに関するあらゆる事を、言葉による変換なしに記憶しようとする。おそらく人間の脳は、イメージをそのまま記憶するにはメモリーが不足している。だからその情報を言葉に変換・圧縮して処理する。しかし、それとは別種の情報処理のやり方が必要なのだ。
イメージによって記憶する、といっても、それは明解な視覚像によるものではない。(ぼくは視覚をそれほど信用しない。)イメージは、どうしてもあるあやふやな『気分』のようなものとしてしか記憶できない。しかし、人がある気分を持つとき、そこには十分な理由があるはずだ。というか、気分とは、ぼんやりとしたスカスカなものではなく、そのなかに情報が(処理できないほど)ギッシリと詰まった『塊』なのだと思う。気分を『気分的に』ではなく、理知的に把握すること。できるだけ正確に、厳密に、把握すること。
例えばぼくが、薄紫の花のイメージによって制作しようとするときに問題なのは、そのイメージを再現または表象しようとすることにあるのではない。絵画のイメージは、絵具そのものであり、画布そのものでしかない。問題なのは、絵具そのもの、画布そのもののイメージでしかないものと、薄紫の花のイメージとが、どのような通路によって連結しうるのか、関係しうるのか、ということにあるのだ。(世界そのものと『作品』とは、どのような通路で繋がっているのか。あるいはどの程度『断絶』しているのか。)その関係は、再現でもなければ表象でも暗喩でもないとすれば何なのか。というときに苦し紛れに『気分』と呟いてみる。しかしその気分は決して恣意的なものではなく、厳密なものなのだ。
体育館のドーム型になっている銀色の屋根が、鈍い光でギラリと光った。
自分が常に、同時に、ある特定の空間のなかにいる、ということと、『自分が存在している特定の空間』の外にいる、ということ。