暖かい日。暖かくなったせいか、蠅が飛んでいる。
ビデオでゴダールの『メイド・イン・USA』(1966)。ゴダールのこの時期の映画としては普通の出来。というか、特に興味深いということはない。『小さな兵隊』の延長線上にあるような映画。《やや》政治映画、《きもち》政治映画。アンナ・カリーナを信用していると言えば聞こえはいいけど、アンナ・カリーナに頼り過ぎという感じ。(この頃には、確かもう離婚してるのだけど)確かに彼女は素晴らしいけど、彼女の魅力的なクローズ・アップさえあれば、人は納得するだろうという安易な感じもある。しかし、ゴダールの凄いところは決して傑作至上主義でも完全主義でもなく、様々な試行錯誤をしながら作品を量産してしまうというところ。
この映画は製作者のボールガールが、リヴェットと制作した『修道女』(アンナ・カリーナ主演。傑作。)の公開禁止によって破産状態になったのを救うために、短期間で企画され、『彼女について私の知っている二、三の事柄』と同じスタッフによって同時に撮影され、同時に編集されたもの。結果としては『彼女について・・・』の方が興味深い出来となって、それがその後のゴダールの方向を決定した、ということになったのだろう、と今回観て納得した。『メイド・イン・USA』を最後にして、ゴダールのアンナ・カリーナ時代が完全に終わると同時に、アメリカ映画やミステリーなどを換骨奪胎して映画化することもやらなくなる。多分、もうこんなことやってても駄目だ、とはっきり自覚したのだろう。(ジャンルやスターの神話性に頼る事が出来なくなった、というか、物語のレヴェルでの異化効果みたいなことを、いくらやってても仕方がない、という感じか。)
ゴダールの映画としては、特に興味深いということはないと言っても、勿論それはつまらないということではない。特にバーでの長回しのシーンなんかを観ちゃうと、ワクワクして、自分でも映画をつくりたくなってウズウズしてしまう。(初期のゴダールに限って言えば、ぼくはどうしても、モンタージュより長回しの方に魅力を感じてしまう。ゴダールの長回しは本当にドキドキする。)ベートーベンやシューマンの曲の断片を、電話のベルやピンボールの音などと同列に扱うような音の使い方も、この時期では現在ほどは洗練されてない分、ざっくりとしていて、ぼくなんかには分かり易かったりもする。あと、この映画を観ている間じゅう、黒沢清の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を思い出していた。
1966年にゴダールは、長篇3本と短編2本を製作している。これは黒沢清並みの量産体制。しかも一本一本がかなり肌合いの違うものになっている。この時期のゴダールは何かを探っているという感じをすごく強く受ける。飛躍を迫られている、というか。しかし一本一本の映画にはあまり切迫感はなく、あくまでクールなアプローチ。
夜、ビデオを返却に行く。駅前の道路に、照明を反射して車体が黒光りするタクシーが、何十台もダーッと、4列縦隊で並んでいるのを高いところから見下ろす。それを見て、ああ今日は土曜日だったんだ、と気づいた。しかし、土曜の夜にしては閑散としていて、寒いでも暖かいでもない、風も全くない《ゆるい》気候の人気のない夜の道を、ビデオ屋へ向かって歩く。途中に最近出来た『ブック・オフ』が、不自然なほど明るい照明で光を発していて、通り過ぎ際にちらっとなかを覗くと(眩しいくらい明るい)、そこだけびっしりと人が犇めいていた。
昨日読んだ本は2册とも面白かった。『小春日和』は、ほぼ10年ぶりくらいに読み返した。以前に読んだ時は金井美恵子の小説にしては薄口かなあという印象があったのだけど、全然そんなことはなくて、ゴージャスでサーヴィス満点の小説だった。確か金井美恵子のエッセイで、金井姉妹が鎌倉の澁澤龍彦の家に遊びに行く、というのがあって、とても短いものなのだけど、何と言うか独特の幸福感に満ちていて、ぼくはそれがとても好きなのだけど、『小春日和』には、それに近い感じが濃厚に漂っている。本当に小春日和のような小説。(ぼくは澁澤龍彦という人には全く興味がないのだけど、金井美恵子のエッセイに登場する、登場人物としての澁澤龍彦はとても魅力的で、金井美恵子の澁澤関係のエッセイは追悼ものまで含めてみんな好きだ。)
青山真治、阿部和重、黒沢清、塩田明彦、安井豊(稲川行人、樋口康人・編)『ロスト・イン・アメリカ』は、主にスピルバーグ、キャメロン、キューブリックに関して語られている。前半のスピルバーグ、キャメロンを中心としたアメリカ映画についての討論はとても興味深く刺激的なのだけど、後半のキューブリックに関する部分は、やや退屈。それは、前半部分は、青山真治、阿部和重が跳ねっ返りというか、青臭くも挑発的な意見を言い、それに対してやや損な役割として塩田明彦が古典主義的というか保守的な立場で対立し、その両者の対立の構図を越えた地点から、颯爽と黒沢清が発言する、という風に進行するのに対して、キューブリックについての部分は、青山と阿部の2人だけによって(進行役は別にいるのだが)進められ、2人の意見が妙に同調してしまっていて、それに疑問を投げ掛ける人物がいない、ということによるのだろう。まあ、それだけではなくて、ぼく自身が、スピルバーグについては一定の関心があるのに、キューブリックのことは、一度も面白いと思った事がなくて、底の浅い映像主義者としか思っていない、ということがあるのだろうけど。でも、とりあえず『アイズ・ワイド・シャット』は観ておかなくっちゃ、という気にはなった。