ゴダール『アワーミュージック』を日比谷シャンテで観た

ゴダールの『アワーミュージック』を日比谷シャンテで観て来た。見ている間じゅう頭に浮かんでいたのは(ベタではあるけど)大江健三郎の言うレイターワークというやつで、その(ゴダールの映画としては特異な)静かさと穏やかさ(まろやかさ、とさえ言えるだろう)、そして何より、臆面の無いまでの過去の自作の使い回しっぷりなどが、大江健三郎の最近の小説を思わせた。正直言って、最初の地獄編はまったくのれなくて、本当にゴダールモンタージュしたのかと疑うくらいの、たんなる「殺戮映像集」にしか思えず、もし「音」がなければどうなっていただろうと思い、凄く嫌な予感がはしったのだけど、煉獄編に入った最初のショット、雪のなかをはしる路面電車、を観て、ああ、ゴダールだと安心する。その後、飛行機のショット、空港での俯瞰ショット、自動車のつくりだす空間を使った寸劇、など、いつものゴダールが、しかしいつもよりもややゆったりした(棘の無い)調子でつづく。と思っていると、空港から大使館みたいな所へ移動する車のなかや、その途中のサラエヴォの風景などは、まるでオリヴェイラの『世界の始まりへの旅』みたいな撮り方をしていて、おっ、と思う。つまり、最初の路面電車のショットは、ああゴダールだ、と安心するものの、それは結局、『新ドイツ零年』の東ドイツも、『アワーミュージック』のサラエヴォも、同じように路面電車(ムルナウ?)撮ってるだけじゃん、ということであり、『ヌーヴェルヴァーグ』の空港と、『アワーミュージック』のサラエヴォの空港とどう違うの?、ということでもあるのだが、そう思わせておいて、車の移動のシーンで、あっ、これがサラエヴォなのか、と驚かせる、というわけだ。この映画はだいたいそんな風に進行してゆき、サラエヴォと言っても、いつものゴダールの撮るような風景を、いつものゴダールのようなフレームで、いつものゴダールのような光で、いつものゴダールのように人物を動かして撮って(そこに、いつものゴダール風の引用がかぶさって)いるだけじゃんと油断していると、ふいに、新鮮で生々しいショットがふっとあらわれて驚く。まあでも、ゴダールはいままでもずっとそうやって、「ほとんど同じようなカードばかりを切って、しかしその都度新鮮なものを作り上げてきた」(浅田彰・記憶による引用なので正確ではありません)と言えるのだけど。
●この映画は、緑の地の上に浮かび上がる赤、の映画であり、つまり、その補色の関係が「切り返し」という主題と繋がるように思う。この映画の中核となるのは、ゴダールの講演のシーンでの、ゴダールとオルガとの出会い損ないであり、それを捉えた「切り返し」であるだろう。このシーンでゴダールは、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を引用した、自身の『女と男のいる舗道』を引用している。つまりこのシーンでは、『女と男のいる舗道』で、ジャンヌとアンナ・カリーナの視線が決して交わらない(アンナ・カリーナは映画のジャンヌの涙を観て涙を流すが、映画のなかいにるジャンヌは、勿論、自分を見ているアンナ・カリーナを見ていはいないし、知ることは出来ない)という、視線の非対称性が示されている。オルガはゴダールを見るが、ゴダールはオルガを見ない(ゴダールにはオルガ的存在を発見することが出来ない)。このことがゴダールの孤独を際立たせる。しかし、決してオルガを「見る」ことのないゴダールは、見る(知る)ことさえ出来ないオルガの存在(オルガ的存在)をどこかで信じ、自ら意識しないうちに触知していて、彼女のために(彼女の死のために)「花」を栽培している。この、決して交わらないが、しかし、(死んでしまったオルガも、ゴダールも、どちらも「知る」ことのないまま)、辛うじてその一端が触れるか触れないかする「出会い損ない」こそが、あり得べき唯一のコミニュケーションのあり様であり、唯一の希望であることが示されていると思う。おそらくそれが、そう遠くはないであろう「死」を前にした(若者を理解することも出来ず、若者からも理解されていないと、おそらく感じているであろう)ゴダールのぎりぎりの「希望」なのだと思う。
●それにしても、最後の天国編はよく分からない。この分からさなは、晩年のセザンヌの「水浴図」のシリーズと同じくらいに分からない。いや、この部分を構成しているショットは分からないどころか、見覚えのあるものばかりだ。緑の林のなかの赤いワンピースの女性や、水辺に佇む人物たち、そして水面の撮り方などは、以前のゴダールの作品で何度か目にしたものの反復でしかない。(それは、セザンヌの「水浴図」もまた、あきらかに他のセザンヌの絵の反復であるのと同じだ。)しかし、裸(に近い)若い女性たちが、林のなかの水辺で楽しげに戯れる、という陳腐なイメージが「天国」だというのはどういうことか。人は歳を取ると、このようなイメージを必然的に天国と思ってしまうのだろうか。これは一体(ゴダールにしてもセザンヌにしても)本気なのか冗談なのか。しかしそのことを、そんなに難しく考える必要はないのかも知れない。この天国編はたんに、「よく晴れていても、こちら側(天国)からは、あちら側(煉獄=現実)のことは、よく見えない」という、視線の非対称性(切り返し)を示すためだけにあるのかも知れないのだ。