●批評空間のサイトに載っていた、樫村晴香の文章がとても面白い。この文章はそれほど長くはないので、全体の半分以上になってしまうが、引用する。
《彼が正しくも言うように、法とは本質的に、この場の感情、今、ここの自分に直接に帰属しないものを、自分の身体に記載する過程である。それゆえ哲学では、法はしばしば、死の観念と結びつけられ、死を隠喩として論じられる。
言い換えると、法と倫理のあり方は、世俗的な功利性、現実原則の水準では閉じず、一つの社会や主体が自己の死を内化・隠喩する仕方と密接に結びつき、それに応じて多様に存在する。例えば法の始源を論じる際フロイトが用いる負債の観念(これはクラインでもラカンでも重要である)は、三位一体論と同根であり、その外部では必ずしも有効でない。
私は家はフランスにあるけど、実際はイスラム圏で生活する方が多い。フロイトラカンの立場から図式化すると、イスラムは死を排除していることになるが、彼らと接していると、現実が言説の操作対象となり、儀式化されるだけでなく、それと共に自己の存在が自分から遠ざけられていくかの、欲望の精妙な抑制の感覚が伝わってくる(もちろん、限られた上流階級の人々の話だが)。ここでは死は、始源で負債を通じてではなく、言葉の端々に隠喩されて人と結びつき、法は儀式と、より近い場所にあるようだ。》
●言説によって厳しく操作されることで、現実が儀式化し、そのようにして律せられた現実=生活によって、自己の存在を自分から乖離させるような「抑制」の感覚が生まれる、というくだりを読むと、イスラム寺院の一点の曇りも無い明快な形態のうつくしさと、その壁面に揺らぎなく増殖する装飾模様が頭にバーッと浮かぶ。おそらくこの(曇り無く明快で過剰な規則性の)感覚こそが、「死」が、「始源での負債」ではなく「言葉の端々に隠喩される」ということなのではないだろうか。
●「法」や「倫理」が、世俗的な功利性(現実のなかで有効に機能すること)の水準だけでは閉じず、今、ここの自分には帰属しえないもの(自分よりも大きなもの、自分の死を超えてあるもの)と、自分の身体とを結びつけ(あるいはそれを身体に「刻み付け」)るものであるということ。そしてその「大きな何ものか」の継続性を保証するのが、社会や文化の継続性であること(つまりそれによって、その中で生まれ育った者に深く「刻み付け」られること)。だから、身体に刻み付けられたものとしての「法」や「倫理」を、「世俗的な功利性」によっては解消できず、しかし、それをなし崩しにするのが資本主義であること(とは言っても、ここには多分にキリスト教的な法や倫理がしみ込んでいるが)。樫村晴香は、2001年に書かれたこの文章を、次のように締めくくる。《私はビンラディンがなぜ「キレて」しまったか、とりわけ何が失われていくことに怒ったか、その感触が何となく解る気がするが、それを表象するのは、そう簡単ではない。》しかしここで「表象」はとても重要であるように思われる。「表象不可能な他者への倫理」というような深遠な哲学も勿論重要だが、「その感触が何となく解る気がする」ということ(素朴に「想像力」と言い換えてもいいかも知れないけど)はより重要であるように感じる。

●追加
以下、全文を引用する。
>> 樫村晴香氏から >>>>
ポートランドの市警がアラブ系学生の情報収集を求めるの要請を拒否したことが評判になっている。警察署長はアフリカでの文民警察官の経験があり、その場の復讐心や愛国心が法の上に置かれたとき、どんな悲劇が起こるかを体験してきた、と語っている。
彼が正しくも言うように、法とは本質的に、この場の感情、今、ここの自分に直接に帰属しないものを、自分の身体に記載する過程である。それゆえ哲学では、法はしばしば、死の観念と結びつけられ、死を隠喩として論じられる。
言い換えると、法と倫理のあり方は、世俗的な功利性、現実原則の水準では閉じず、一つの社会や主体が自己の死を内化・隠喩する仕方と密接に結びつき、それに応じて多様に存在する。例えば法の始源を論じる際フロイトが用いる負債の観念(これはクラインでもラカンでも重要である)は、三位一体論と同根であり、その外部では必ずしも有効でない。
私は家はフランスにあるけど、実際はイスラム圏で生活する方が多い。フロイトラカンの立場から図式化すると、イスラムは死を排除していることになるが、彼らと接していると、現実が言説の操作対象となり、儀式化されるだけでなく、それと共に自己の存在が自分から遠ざけられていくかの、欲望の精妙な抑制の感覚が伝わってくる(もちろん、限られた上流階級の人々の話だが)。ここでは死は、始源で負債を通じてではなく、言葉の端々に隠喩されて人と結びつき、法は儀式と、より近い場所にあるようだ。
いずれにせよ、一つの所与から構成された隠喩でしかない記述体系を、別の所与に当てはめると、結果は常に滑稽であり、「存在論的」「精神分析的」なイスラム記述は、例外なくそうである(丁度昔のマルクス主義歴史学のようだ)。私はビンラディンがなぜ「キレて」しまったか、とりわけ何が失われていくことに怒ったか、その感触が何となく解る気がするが、それを表象するのは、そう簡単ではない。