一昨日入手した『黒沢清論集』に載っている『大いなる幻影』論のひとつ、小沢麗子『まず内面の粛清より着手せよ』の末尾に、全体のバランスからみてやや過剰な感じのする註がついていて、その、論旨の均衡を乱しかねないほどの怒りというか、苛立ちは一体どこからくるのだろうか、と考えていたところに、今日、ビデオで借りてきた青山真治『シェイディー・グローブ』を観た。で、もしかしてこれのこと、と思う。
長くなるけど、引用させていただきます。
『蛇足だが、「大いなる幻影」の恋人達は慎み深く近未来の無表情に留まり、現代性を表徴しようなどという恥知らずな試みには出ない。従って、接吻もしないが携帯電話て繋がろうともしない。失われた自然であり内面の象徴である森の深奥に分け入って行ったりもしないし、アダルトチルドレンな傷を見せ合うこともない。父にありがとうとも言わなければ、母にさようならとも言わず、ファリックにいきり立ちもしなければ、胎内回帰願望よろしく丸くなってみたりもしない。兄と妹の近親相姦を髣髴とさせたりもしなければ、両性具有の優しい包容力をたたえていたりもしない。制度に組みしない恋人達はファミリーロマンスの葛藤とも無縁である。』
勿論この文章からは『シェイディー・グローヴ』だけでなく、あれも、これも、と筆者を苛立たせただろう幾つかの作品名を具体的に思い浮かべもするし、小沢氏が本当に『シェイディー・グローヴ』を念頭に置いてこの文章を書いたのかは知るよしもないけど、『シェイディー・グローヴ』は、恥ずかしいほど、まんまピッタリと、上記の『恥知らずな試み』という批判に当てはまってしまう。
で、ぼくはといえば、あまりのことにあんぐりと口をあけたまま、怒ったり、苛立ったりすることさえ出来ず、もう笑う以外どうしょうもなくて、結果としてけっこう面白く観てしまったのだった。青山真治は一体何を考えてこれをつくったのか、今流行りのサイコ・ホラーの脱構築(脱神話化)とか・・・まさか。『大いなる幻影』の慎み深い聡明さとは正反対の『シェイディー・グローヴ』の、どうしょうもないおバカっぷり。しかしこの徹底した馬鹿さ加減は、中途半端に『狙って馬鹿やって』つくられた高橋洋・佐々木浩久の『発狂する唇』などよりもずっと清々しく、好感さえ感じてしまったり・・・。だって、こんな映画、今までちょっと観たことない。これはやはりナンセンス・コメディとして観られるべき映画なのではないだろうか。主演の女の子は、ほんの僅かな知性も内面も持っていないに決まっているのだし、実際ちゃんと、そういう顔をしているではないのか。だから森は、内面の象徴などにはちっとも成り得ていないし、男の子がふと漏す、双子の妹の話だって、まるっきり薄っぺらで、近親相姦的な欲望にまでなど昇華するべくもない。女の子が、私ってもしかしてアダルトチルドレン、とあっさりと口にし、探偵に向かって親からの期待について話しかけたりするに至っては、流行りの『トラウマもの』を愚老しているとしか思えない。人物は、どこまでもデクノボーなハリボテのようなものでしかないし、ビデオで撮影されたらしい粒子の荒れた映像も、生々しいリアリティーからはほど遠いものだ。(しかし、実際身近にこのような迷惑な人物がいたとしたら、我々は極力その人物と接触しないように努めるしかないのだが。彼らは世界に他人が存在するということを全く理解せず、自分の思い込み以外のものに全く興味を持たない。しかしそれでも彼らは平然と世界と接続する。ランダムにかけた電話の相手から『エッチしないなら切るよ』と言われた女の子が『あんたみたいなおやじがいるから日本は駄目になったのよ』と叫ぶ身勝手さに怒りを感じない者はいないだろうし、誰かも分らない電話先の女の子の話に答え、『あなたの気持ちはきっと伝わりますよ』などと平然と言う男の子には、おいおい、と突っ込まずにはいられないだろう。)
冒頭から流れる不思議なナレーションが、実は探偵(=分析医)によるものだと物語の中盤で分るという説話的な工夫も、『エレメント・オブ・クライム』とか『プライベート・ライアン』だとか、あるいは『そして僕は恋をする』だとかの、特異なナレーションを採用している作品たちのあくまで幼稚な模倣でしかないのだが、光石研の平板な声が、作品を平板化するのに貢献していて、またその幼稚っぽさが笑えていい、と言えなくもない。賢明な黒沢だったら決して採用しないであろう、チープで下品な『現代的』な『アダルトチルドレンな傷』を持つ者達の『ファミリーロマンス』な葛藤という題材を、ゴミひろいのようにいちいち拾いあげては、それを組み立てて、しかしそれを物語として説得力のあるものには昇華させず、現代的な問題の、馬鹿馬鹿しくも薄っぺらなさまを、白々しくそのまま形にすることで、実質的に黒沢の強い影響下にある青山は、なんとかして強力な黒沢的な磁場から逃れようとしているのではないか、というのはあまりに好意的な見方にすぎるのだろうか。
まあ、いずれにしても決定的な判断は、いろいろと評判の『ユリイカ』を観てみなければ何とも言えないけど。
ちなみに、ビデオ化された『シェイディー・グローヴ』には、恋は突然に、というサブ・タイトルが付けられている。この、男の子から女の子への、突然の恋、も、唐突なだけで何の説得力も必然性もない。だいたいこの映画の登場人物たちは、ショットが変わる度に違う人物に入れ替わっているのではないかと思えるほど、人格に一貫性がないのだった。(嫌な奴だ、という一貫性はあるかも。)これって実は『郵便的不安たち』の世界ってことか。
それにしても、あの圧倒的な『Helpless』の青山真治が、ほんの数年でこんな地点にまで来てしまったということには、驚きを禁じえない。『冷たい血』もかなりキワキワな映画だったけど、ここまで堂々と『サイテー』ではなかった。それが新たな可能性へ向けてのジャンプなのか、破滅への道なのかは、正直ぼくには分らないけど。でも少なくても、アオヤマは決して『エヴァンゲリオン』のようなものは作らないだろう、というくらいは信用してもよいのではないか、と思うのだけど。つまり、『エヴァ』においては常にシンジが世界の中心にいるのだけど、『シェイディー』では、自分勝手でアダルトチルドレンな人物が、あっちにも、こっちにも、ここにも、そこにも、バラバラに居て、中心はどこにもなく、つまり世界とはそういう場所なのだ、ということでしょう。そして彼らが出会う場所が、実在しないバーチャルな空間としての『森』ってことか。しかしそれではあまりにも単純な『現代的な物語』ってことになる。しかも黄色いワンピースとか着てるし。