『ポーラX』

ビデオで『ポーラX』。レオス・カラックスは相変わらずのロマン主義者っぷりで、大げさで大時代な光と闇のメロドラマを気合い入れまくりで演出している。いかにもヨーロッパ貴族という甘いイイ男のピエールが、終盤、髪ぼさぼさに不精ヒゲ、分厚いレンズの眼鏡に黒くて重そうなマントを羽織り、杖をついてヨタヨタと歩くは、出版社からの手紙の開封もままならないほど手が震えてるはの聚落ぶりは、ほとんどコントの演技みたいで笑いすら誘いかねない。とは言ってもそこはさすがのカラックスなので、退屈することもシラケきってしまうこともなく、それなりに面白く観られる。少なくとも『ポン・ヌフの恋人』よりはずっと好きだ。『ポン・ヌフ』においてのホームレスの男と、裕福な画学生の女という立場の差異は、単に古典的なメロドラマを作動させるための装置でしかなく、ほとんど『タイタニック』と変わりがないのだけど、『ポーラX』の弟と姉の関係は、もう少し複雑なものを含んでいる。
でっかいお城に住み、美しい婚約者もいて、その上、覆面作家としての成功まで手にしていて、何不自由なく暮らしているピエールは、しかし、夢のなかで日々ちかづいてくる『顔』に不安を感じてもいる。そしてある日、その『顔』に導かれるように謎の女=姉に出会ってしまう。女は、ロマン主義的な湿った森の奥深くへと歩きながら、ピエールにたどたどしく語りかける。どうやらその女は外交官であった父が外国で生ませたピエールの姉で、告白の内容からすると、どうもユーゴあたりからの難民として設定されているらしい。自らが当然のように受諾してきた裕福な生活の闇の部分を知ってしまったピエールは、自分の今までの生活全てがまやかしだと感じ、『真実』を求め、家を飛び出して姉とともにパリへと出発する。難民に対するパリ市民の冷たい仕打ち。つかの間の幸福な時間。近親相姦的(的じゃないか)愛情と性交。しかし彼らは次第に暗くて閉ざされた方へ、無秩序と錯乱の方へと突き進んでゆき、最後には破滅が。彼らはまるでそれが望みだとでも言うかのように、最悪の方へ方へと向かってゆくことしか知らない。こんな風に要約すると、弟と姉の関係は、弟=光に対する姉=闇であり、かれらは共に分身同志であり、プラトン的な補完関係にあって、いかにも自己の内面に渦巻くパッションにしか興味を持たないロマン主義的悲劇作家としてのカラックスらしい通俗的な『どメロドラマ』ということにしかならないみたいだけど、そうとばかりは言えない部分もある。
この映画の背景には、あきらかに旧ユーゴの惨状と、それに対するフランスの態度へのカラックスの激しい怒りがあるように感じる。(この映画は、墓を空爆する映像から始まる。)それと、おそらくヨーロッパ全土を覆っている閉息感とか、それによる排他的な、息がつまるような雰囲気とかも。勿論カラックスは決して政治的な作家ではないので、それを古典を原作とした内面の劇として描いてしまう訳だけど。だからここで姉は、必ずしも弟の分身であるだけではなくて、弟の(フランスの)無自覚な『幸福』によって踏みにじられた無数の匿名の死者たちの影でもあり、どのようにしても同化しようのない死者たちの無言の圧力によって、弟=ピエールは姉とともに果てしも無い混乱に陥り、破滅にまで突き進まざるを得ない、とも読める。この辺りの救いようもないリアルな暗さが、この映画と『ポン・ヌフの恋人』とを分けるものであるように思える。姉はいつも『私は真実しか語らない』と口にするのだけど、その真実とは何のことなのか。彼女はただ真実、真実と繰り返すのみだ。その内容を欠いた『真実』という言葉が死者たちの呪いのように終始姉弟につきまとい圧力として作用する。
ピエールの前に姿をあらわす姉は、なぜか2人の連れ(難民)と一緒だ。彼女たち3人はどこへいっても邪魔ものとして扱われる。タクシーでは降りてくれと迫られ、ホテルではどこでも宿泊を拒否される。動物園の象の前でピエールから『人間は臭いから、象は人間が嫌いなんだよ』と教えられた少女は、道行く人たちに、臭い、臭い、という言葉を投げ掛け、それに怒った男に殴り倒され、地面に頭を打って死んでしまう。それでも彼女たちは、国外退去を恐れ、医者も警察も呼べない。こうして彼女もまた匿名の言葉のない死者の1人となる。
かくして常識的なフランス市民から追われた彼らは、荒んだ工場跡地のような場所で、前衛ミュージシャンたちと難民たちが共に暮らす、一種のアジールのような場所へと追い込まれてゆく。この場所は、ラヴ&ピースでフラワーチルドレンな牧歌的なコミニュティーでもないし、ウォホールのファクトリーのようなクイアー的な親密さもなく、寒々しく、周りを金網で囲い、防犯カメラと番犬で周囲から身を守り、ピストルで武装さえしている。この殺伐とした風景は魅力的なものではある。新しい住人が増えるたびに一つづつドアを付け加えてゆくというアイディアも素晴らしい。もはや我々はこのような場所にしか存在する為の場をみつけられないのではないか、というカラックスの絶望のようなものも理解できないではない。でも、これっていわゆる『カルト』とどこが違うの、っていうのは微妙なところ。『カルト』と違うところがあるとすれば、彼らは全くバラバラに勝手なことをしていて、ただ自分たちが存在するための場所を確保するためだけに協力しているといった気配がある、ということくらいか。
ともかくも、そのような場所に閉じこもって、ひたすら『真実』についての小説を書きつづけるピエールは、混乱を極め、いつの間にか、『真実』どころか、姉に対しても、婚約者に対しても、その都度都合のいい嘘をつくだけ、というようなサイテー野郎に成り下がってしまっている。そしてその果てにあるのは、メロドラマ的な崇高で華々しいカタストロフィではなく、どこまでも卑小なテロリズムと情けない結末でしかない。『真実』を求めてヒロイックに行動し、コンピューターを使って書いていた小説も手書きにしたりするピエールが、結局、真実どころか『サイテー嘘つき野郎』にしか行き着かない、というところに、永遠の未熟者をウリにし、破滅型の芸術家を気取っている、レオス・カラックスの知性というか、多少の成熟のようなものを感じないでもない。
(どうでもいいことだけど、姉、イザベルが初めて登場するシーンの、彼女のあの、コケ方、は、すごく好きです。)