カラオケ。ジョイサウンド。得点機能付き。『正しい街』(945点)『丸の内サディスティクス』(925点)『モルヒネ』(915点)『本能』(913点)。結構イイ得点でしょ、って自慢げ。
今日も『東京ラブストーリー』を観てしまう。江口洋介と有森也美が2人で観にいった映画は、エットーレ・スコラの『あんなに愛し合ったのに』だったりする。
スティーブン・スピルバーグ『太陽の帝国』をビデオで。
80年代後半から90年代始め頃はスピルバーグ低迷の時期。85年『カラー・パープル』87年『太陽の帝国』89年『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』と『オールウェイズ』91年『フック』。誰もが、もうスピルバーグは駄目なんじゃないかと口にしていたが、93年の『ジュラシック・パーク』で復活のきっかけを掴み、『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』で新たな自分を発見し確立する。というのが、だいたい映画好きの一般的な評価なのではないか。
この一番ヤバい時期のスピルバーグをぼくはほとんど観ていないのだった。
『ロスト・イン・アメリカ』で黒沢清は、『太陽の帝国』を同時期の『ラスト・エンペラー』と比較して、見劣りしないし『太陽の帝国』の方がいいくらいだ、と言っている。で、観てみようと思ったのだけど、これはまあ、黒沢独特の挑発的な暴言のようなもので、『ラスト・エンペラー』のベルトリッチが、ともかくもあの大作を一本の映画として成立するように力技で制御することが出来ているのに対し、『太陽の帝国』は贅沢に様々な映画的なアイディアが沢山詰め込まれてはいるものの、それぞれがバラバラで、簡単に言えば何がやりたいのかよく分らないという感じになっている。いや、個々のシーンでは、何がやりたいのかは、凄く良く分るのだけど、それを一本の作品として組織することが出来ていないというか。これでは、「面白い」スピルバーグを期待する人からは、アカデミー賞狙いの文芸路線だと非難されても仕方ないし、「識者」からは、スピルバーグは大人が描けないとか、ドラマが描けないとか非難されても仕方がない。
でもそんなことは大したことではない。確かにスピルバーグは決定的な一つのイメージで人を納得させるようなことは出来ないかもしれないけど、次々とくり出される様々なアイディアというか細かい工夫にはワクワクさせられる。まあ、なかにはあまり上等とはいえないような細部も沢山混じっているし、アイディアの詰め込み過ぎでドラマの流れを見失いがちではあるのだけど、それでも素晴らしいシーンが沢山ある。これは今から振り返って考えれば、ということに過ぎないのだけど、古典的な大作をともかく作ることの出来てしまうベルトリッチより、それに失敗して、バラバラに解体したようなものを作ってしまうスピルバーグの方が、より現代的で前衛的な作家なのではないだろうか。
とにかくぼくはこの映画がとても好きだ。模型飛行機が塀を越えてしまい、それを追ってゆくと沢山の日本兵が、ヌッ、とあらわれるシーン。両親と離ればなれになってしまった少年が、ガランとした広い家で自転車に乗るシーン。戦闘機の襲撃に、我を忘れて恍惚となる少年。広大な中国の荒野を彷徨っていると、何故かそこに様々な家具や高級な自動車が一面に置いてある場所があり、そこで収容所で世話になったおばさんと、死んだフリをする少年。
終戦後、廃墟のようになった捕虜収容所を自転車で走り回る少年。空からパラシュートで降りてくる救援物資の食料が、収容所の屋根を突き破って、天井からパラパラと振りそそいでくるシーン。
黒沢清が92年に書いた『フック』についての文章。
《単なる無茶苦茶、デタラメ、バラエティー・ショーのたぐいではない。それは間違いなく誰かの手によって操作され、何かに向かって進んでゆくひとつの総体であり、シーンごとにバラバラに分離しても成立するといったものではない。が、いったい誰の手によって、何に向けて組織されたのか、そこのところがさっぱり分らないのである。(・・・)あの不可解なバランスの悪さ、スキだらけだがそれをどう非難の言葉に換えてよいかとんと分らぬかんじ、(・・・)そしてこの不可解が映画全編にわたって展開された時、誰もが"面白い"とも"つまらない"とも呟くことのできぬ、極めてやっかいな状態の中に置かれてしまう。》
振り返って考えれば、スピルバーグの映画には、ごく初期からこういう感じが常につきまとっていたのだった。