『どこまでもいこう』『動くな、死ね、甦れ ! 』

昼頃起きて、『笑っていいとも』観ながら食事していた。中江有里が出ていて、大林宣彦に繋いだ。大林のおっさん、中江有里に『ぼくのことを思い出してくれてありがとう。でもぼくは君のことは決して思い出したりしないよ。だって、忘れたことがないから、思い出す必要がないんだ。』とか言ってやがる。このおっさん、いつもこんなことばっかし言って生きてるんだろうなあ。
ビデオで塩田明彦の『どこまでもいこう』。ヤクルトで始まり、史上最大の作戦のテーマが反復され、ビスコで終わる、いかにもノスタルジックな少年たちの話。しかし、時代の設定は明確ではなく、子供たちは現代風の服を着てるし、現代風の団地に住んでいる。でも、ゲーム・ボーイもプレステも出て来ない。
前半、映画はウェルメイドな展開をみせる。親友2人による、ヤクルト強奪。新学期のクラス分けで別々のクラスになってしまう2人。気になる女の子。親友であることの証のように、拾った1万円札を2つにちぎって、それぞれを持つ2人。新しいクラスで生まれる新たな友人関係。1人が廊下に立たされると、隣のクラスの親友もまた、立たされていた。1人は遊びの天才で、いろいろなおもちゃを発明する。もう1人は、無謀な性格で、けんかっぱやい。新しい友人。ちいさな裏切り。淡々と描写を積み重ねながら、それぞれの人物を描き分け、関係を描き、映画を動かしてゆく。
主人公の男の子がトイレに行く。手を洗っていると、そこの窓の向こうに女子トイレの窓があり、そこにいた気になる女の子と目があってしまう。女の子は窓を閉め、(窓が閉まっているので声は聞こえず、口の動きだけで)バーカと言う。それを呆然と見ている男の子。この辺の演出の、絶妙な感じは、さすがにあの『ファララ』の塩田明彦。この女の子、別に特別何か目立ったことをする訳ではないのだけど、振り返って主人公を見返す目、その眼差しだけで全てを語ってしまえるような素晴らしさなのだった。それと、目立たないけど、主人公の妹の存在も効いている。(でも、主人公の住んでる部屋から、女の子の家の窓が見える、という設定は、あまりに『映画的』過ぎるんじゃないだろうか。)
多少苦さは漂わせるものの、基本的には、少年時代へのノスタルジックな眼差しでつくられた甘くて幸福感に満ちた映画、なのだろうとタカをくくっていると、突然映画は、悲劇的な様相を見せる。
主人公の新しいクラスでの新しい友人の1人,目立たなくて友達も少ない男の子。この子は、世界がつきつけてくる悲しさにただ耐えるしかない存在として描かれている。明らかに神経症的な母親と、2人だけで暮らしているその男の子が、ある日、主人公を訪ねてきて、今度離婚した父親と暮らすことになるから、もう2度と会えないかもしれない、と告げる。(主人公はその男の子に1度ちいさな裏切りをしている。)2人は主人公の部屋のベッドに並んで座り、団地の最上階であるその部屋の窓から、爆竹を装着した紙飛行機を飛ばす。窓から空へ向かって飛ばされたその飛行機は、途中でパーンという乾いた音とともに破裂する。パーン、パーンという乾いた音が、団地のなかで何度も響く。その乾いたパーンという音が、映画という表象装置のなかで、世界の悲しさそのものを表現する強度をもったマテリアルとしてあらわれている。そして男の子たちは、2人で並んで座ることで、その、自分たちの力ではどうすることもできない、世界に蔓延する「悲しさ」に、必死で耐えているのだ。
その後、さらに悲劇的な事件が起こるのだけど、映画を観ていない人がいるかもしれないので詳しくは書かない。そしてこの事件の後、今まで滑らかに流れてきた映画の時間が、淀んでくる。物語は滞り、主人公の少年がただ必死に、しかし淡々と、世界の悲しさ、に耐えるというだけのシーンが続くのだ。ここにきて、今まで、上質ではあるものの、ウェル・メイドのノスタルジックな映画でしかなかったものが、それを超えた輝きをみせる。
しかしその輝きは、残念ながら、例えば同じような年代の子供を扱った、相米慎二の傑作たち、『ションベン・ライダー』、『台風クラブ』あるいは『お引っ越し』といった作品の強度にはとても及ばないと、言わざるを得ないと思う。
あと、気になったのは、女の子の描き方がちょっと単純すぎるのではないか、ということ。理想化しすぎてる、というか。これでは『ドラえもん』のしずかちゃんと、そんなに変わらないのではないか。この年代の女の子って、もっとあからさまに意地悪で残酷だったりすると思うのだけど。だからぼくは、ビスコを2つ並べる、あまりにもきれいなラストはちょっと納得いかない。せっかく、あの素晴らしい眼差しを持った女の子をキャスティングすることができたのだから、もうひとがんばりして欲しかったかなあ。
ビデオを返したその足で、澁谷のユーロ・スペースにカネフスキーの『動くな、死ね、甦れ ! 』を観に行く。午後9時10分から、レイト・ショー。最近、澁谷近辺のミニ・シアターはどこも盛況みたいで、観に行くといつも混んでいる。今日もほぼ満席。
全くこれは何とも言えない凄い映画で、『どこまでもいこう』のことなんてすっかり忘れてしまいそうになった。ロシアっていうのは一体どんな所なんだ。そりゃ、ドストエフスキーとかバフチンみたいなのが生まれる訳だ。
いきなり冒頭から溢れかえるような豊穣な物質の嵐。土はいつも泥濘んでいるし、雪は固まって氷となって地面にへばりついている。木のドアは開け閉めの度、大げさにギシギシいうし、ブタがブヒブヒ鳴くは、子猫もミャーミャーうるさい。石の壁の豊かな表情、鉛の鍋ややかんの鈍い輝き。重たそうな靴や帽子。ブタの飲むミルクの白さ。肥溜めから汚物は溢れて流れ出すし、行進する生徒たちがそれを踏んで、糞が土と混ざり靴にも着く。大勢の人物が押し合いへし合い画面にひしめいている。重たい鉄の塊である汽車は、さらに多くの人を吐き出すし煙りも吐き出す。人々は皆、大声でがなりたて、なにかというと、殴ったり、どついたり、転ばせたりする。男は朝っぱらから、汚い大声でとても歌とはいえない歌をがなっては、身体をオーバーに動かし、とても踊りとはいえない踊りを踊る。校長は怒鳴り、女教師はヒステリックにわめきたて、母親は必死に抗議し陳謝する。発狂した男は、小麦粉を地面にまき、泥とぐちゃぐちゃ混ぜて口にはこぶ。物語とか登場人物とかいう以前に、世界に遍く拡がる多様で過剰な物質の表情が画面を埋めつくし、音をたてて、画面から溢れて零れてしまいそうだ。カーニバル的な世界。
戦後すぐの極東ロシア。収容所に隣接する、というよりほとんど収容所と一体になってしまっているような小さな町。そこに住む母親と2人暮らしの少年。同じ建物に住む少女。少年の細い身体が、豊穣と混沌の世界のなかを走り抜ける。少女は何故かいつも少年の傍らにいて、時には少年に協力し少年を救い、時には挑発し、時には愚老する。徹底して、豊穣と混沌の織りなす狂騒曲のような世界で、捕虜となった日本兵が歌う、日本の民謡のメロディが、唐突に画面をある感情を浮かびあがらせる。むせ返るほどのザッハリッヒな世界で、この日本風のメロディだけが、唯一感情的なものを、人間の、世界に対する諦めのようなものを、死に対して感じる人間的な感情を、漂わせる。しかしそのような感情は、ロシアの、圧倒的な物質的なものの過剰を前にしては無力で、たやすく破られ、『悲しみ』など感じている暇も無く、人はただ流れてゆくしかない。人もたんに物であり、混沌のなかで、ただ生きて、ただ死ぬ。それに耐えられなければ、発狂するだろう。
映画が終わった後も、なかなか現代の、2000年の東京の現実に帰ってこられなくて、ぼーっとしたまま、電車に乗った。