ストローブ=ユイレ『シチリア ! 』

目の酷使しすぎで頭が痛い。夕方から雨。
国際交流基金フォーラムへ、ストローブ=ユイレの『シチリア ! 』を観にいった。ホールの入り口附近で、青山真治氏らしき人物がタバコを吸っていたのだけど、あれは御本人だったのだろうか。
恥ずかしい話だけど、ストローブ=ユイレの映画は今まで『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』しか観ていないし、それももう随分前で(高校の時くらいか・・)、ほとんど憶えていない。
観ていて先ず困ったことは、字幕がほとんど読めないこと。モノクロのかなり明るい画面に、白い字で字幕を出されても、ほとんど判読不能。これはぼくの目があまり良くないせいもあるのかもしれないけど、何とか判読しようと字幕を凝視していると画面に目がいかなくなってしまうし、目眩がして、頭がクラクラする。母親と息子の対話の場面は、室内で撮影されているため比較的画面が暗い部分が多く、だいたいのところはフォローできたのだけど、冒頭のオレンジ売りとの対話や、ラストの教会の前での金物とぎ屋との対話は、大部分、読む事ができなかった。それでも冒頭の部分は、オレンジが全く売れない、という話だと推測できるのだけど、金物とぎ屋との場面は、素晴らしいシーンだし、何やらとても楽し気に会話しているにもかかわらず、その内容が全く掴めずにイライラしてしまう。この手の「難しい」映画は、セリフだけでもいいから、採録されたテクストがあると、じっくり画面と音に集中できて助かるのだけど、というのは映画祭での上映に対しては、あまりにも贅沢な注文なのだろう。
でも、まあそんなことはどうでもいい、些細なことにすぎない。まずは、この映画を観ることができた、ということに感謝したい。とは言っても、大した予備知識もなく、字幕もろくに追えない状況で、たった1度観ただけでは、ただ驚くということ以外のことは出来ないのだったが。ストローブ=ユイレによる徹底して即物的な映像と音の凄さに圧倒されながらも、これは推測にすぎないのだけど、多分他の作品よりは、かなり軽妙なものになっているのではないだろうか、と感じた。とりつくしまもないような正確に即物的な映像と音が、こういう軽みを獲得するというのはどういうことなのだろうか。正直、もっと、観ていてキツい映画を予想して、覚悟を決めて出かけたのだったが。
セリフは、喋られるというより朗唱されると言う感じで、その朗唱の仕方も、個々の演じた人物によって異なっている。イタリア語が分らないのでこれも推測なのだが、おそらく素人によって演じられているだろう役では、もとになったテクストが棒読みのようにただ読み上げられているのだろうし、母親役をやった女優などは、詩を吟ずるように、浪々とした調子でテクストを謡い上げる。ここでは演じられた人物の自然らしさではなく、あくまで演じた人物の特異性が重要視されているのだろう。勿論、すべて同時録音なのだろう。しかし、こういう即物的なリアリズムが、結果としてある不思議な抽象性を形づくることになっている、というのが何とも不思議なのだった。ゴダールなんかとは違って、映像と音声はモンタージュされるのではなく、あくまで、分離することが不可能なものとしてあるはずなのに、そのことが逆に、映画における映像と音声の分離や、映像とテクスト(言語)の分離を、際立たせてしまっているようにも感じられる。電車(汽車?)の窓から海岸線を撮ったショットが延々と続く場面があって、今回の上映で、その部分では全く音がついていなかったのだけど、これは、始めからこの部分には音がついていなかったのか、それとも、上映の不手際とか、フィルムの状態とかによって本来あるべき音が消えてしまったのか、分らないのだけど(ストローブ=ユイレの「思想」から言えば、映画上の効果のために音を消す、ということがあってはならないはずではあるのだけど、ここではまた別の原理にもとづいて、音が消されているのかもしれないのだ。)、こういう決定不可能性が生じてしまうということ自体が、つまりは映画においては、音声と映像は本来分離してしまっているのだ、ということを示していると思う。
即物的な、そっけなさと、徹底した厳しさ(正確さ?)による、圧倒的な威圧感、それと同時にからっとした軽み。そして何よりもこの映画の緊張感を構成しているものは、画面に映っているものと、映っていないものとの間の、ヒリヒリと張り詰めた緊張関係だろうと思う。(画面に映っていないものは、音として、あるいは言葉=声として、その存在を主張するしかないのだが。)カメラの位置、フレーム、ショットの構成、等は、すべてこの2つのものの拮抗から組み立てられているように思えた。
帰りに澁谷へでて、ブックファースト星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』、地元の古本屋で『筑摩世界文学大系79・ウォー/グリーン』とビデオ『バットマン・リターンズ』を購入。