02/01/06

●DVDを購入した。で、近所のツタヤを覗いたのだけど、まだソフトはそれほど充実はしていなくて、ビデオでも観られるタイトルが並んでいるばかりだった。
●で、最初に観たのがトリュフォーの『日曜日が待ち遠しい!』。この、まるで乾燥した落ち葉が風に吹かれてカサカサ音をたてて転がってゆくみたいな、どこまでも軽く滑らかに流れてゆくトリュフォーの遺作を、随分と久しぶりに見直して、トリュフォーの演出にも、アルメンドロスの撮影にも、改めて感心してしまったのだった。この映画では、靴の堅い踵が鋪装された地面に触れてたてるコツコツコツという音が終始響いていて、リズムを刻み、その乾いた音がこの映画の乾いていて軽い感じの印象を決定づけている。(雨は何度も降るけど、乾いた感じなだ。)トリュフォーに脚フェチ的な傾向があるのは明らかだと思うけど、それは静止したオブジェとしての脚ではなくて、あくまで歩いている、動いている脚であり、そしてこの映画では、脚は視覚的な記号というよりも、聴覚的に豊かな記号として人を誘惑するのだった。殺人の容疑をかけられて事務所に隠れている男が見上げる窓から見える脚が、その窓が曇りガラスであるためにシルエットでしかなく、ただコツコツコツという音ばかりが強調される、という訳なのだ。
それにしても、この映画のファニー・アルダンは、魅力的と言えば魅力的なのだけど、アヤういと言えば相当にアヤうい。確か『隣の女』では年相応の役だったように思うのだけど、この映画では、何と言ったらいいのか、年齢にそぐわないカマトトと言うのか、過剰にキャピキャピした(しかし、もうちょっとマシな言い方は出来ないものか...)感じで演じることを要求されていて、一歩間違えば、これちょっとどうなのよ、と引いてしまいかねない感じなのだった。とはいえ、このギリギリの線をゆくアヤうさこそが、この映画でのトリュフォーの最大の野心なのではないかとも思えるところがあって、あまりにも見事に演出され滑らかに流れてしまうこの映画は、下手をするとB級犯罪映画の良く出来たオマージュとして、『ピアニストを撃て』から随分と大人になったものだ、で済まされてしまいかねないところを、このファニー・アルダンの微妙にアンバランスな生々しさが、ちょっとした染みのようなもの、軽さにまとい着く微かな重みとして、この映画に作品としての固有性のようなもの産み出している、と言えるかもしれない。しかし、このような「狙い」(あえて言えば、『大砂塵』のジョン・クロフォードの魅力について語る蓮實重彦のような感触と言えばよいのか)で映画をつくってしまうトリュフォーからは、いかにも「中年男性」的な倒錯性、もっと言えばオヤジ的な嫌ったらしさのようなものを感じるのも事実だ。ぼく自身今では中年と呼ばれてもおかしくはない年齢な訳で、こういう感じが決して分らなくはないのだけど、若い頃のぼくがトリュフォーをすんなりとは受け入れられなかったのは、こういうオヤジ的倒錯性がなじめなかったからかもしれない。(対して、ゴダールは、ストレートに「趣味の良い美人好き」なのであって、どのような倒錯性も感じられない。惚れた女を徹底してサディスティックにいじめる「愛の映画」である『ゴダールのマリア』にしても、ミリアム・ルーセルはどのような「ヒネリ」もなくたんに美しいだけなのだった。)