●「群像」1月号(もう2月号が出ちゃったみたいだけど)の、松浦寿輝『あやめ』を読んだ。ここまで徹底していると、松浦氏の小説における自己反復と言うか、マンネリは全く大したもので、もう頭を下げるしかないという感じだ。これは本当に、傑作と言っていいんじゃないかと思う。松浦氏の小説に流れている「現在」という時間は、どこか薄っぺらくて頼りなく、夢とも現ともつかない掴みどころのないものとしてかげろうのようにたちのぼるばかりなのだけど、それよりむしろ、反復的に想起される「過去」こそがナマナマしくリアルな感触で迫ってくる。これは特に小説において顕著なことなのだけど、何も小説に限らず、松浦氏の書くもの全般に渡って言える特徴だろうと思う。松浦氏には『鳥の計画』という詩集があるけど、「計画」などという未来へ向かった積極的な身ぶりは、どこか似つかわしくないという感じがどうしても付きまとう。つまり松浦氏とは徹底して「事後」の生を生きる人なのであり、「事前」の思考をする人ではないのだ。(さらに柄谷的に言えば、「戦後」を生きる人であって、「戦前の思考」の人ではないのだ。)しかし、だからと言ってそれは、繊細ではあるけど、結局はライナスの毛布のようなノスタルジックな過去のなかに安穏と埋没すると言うような退行的な身ぶりとは、ほとんど薄皮一枚で接してしまいそうではあるけど、決定的に違うと言うべきだろう。松浦氏にとってはむしろ「現在」こそが安穏とした「ゆるい」環境なのであって、過去の方が鋭利な刃で人を襲い、傷つけるような制御しがたいものなのだ。人は、「現在」が突き付けてくる様々な問題に対してならば、今まで生きてきた人生の知恵だとか、様々な意味での財産、または人生そのものへの諦念などによって何とかやりすごすことができるのだが、不意をついて、何度も何度も反復して回帰してくる「過去」という時間のナマナマしさだけは、どうにも飼いならすことが出来ないのだ、と松浦氏なら言うのではないか。勿論、過去が人にもたらすのは、どうしようもない「痛み」ばかりではなく、ゆるやかな「甘美さ」だったり存在全体を包むような「歓び」だったりもするだろう。『あやめ』において松浦氏は、このような松浦的世界を小説として顕在化するための形象を的確に探り当てているように思う。
『あやめ』の主人公はいきなり冒頭から死んでいる(これは、いつも世の中から半分降りている人物、つまり半分死んでいるような人物ばかりを描いてきた松浦小説の主人公の究極の姿とも言える)し、その他の重要な登場人物たちは電話からの「声」としてしか「現在」という時間においては登場してこない。このことによって、登場人物たちに今までの松浦氏の小説にはなかった「厚み」が与えられているように思う。12月25日の日記にも書いたのたが、松浦氏の小説に出てくる「女」というのは、まるで「美人画」から抜け出してきたみたいに薄っぺらで、月の光みたいに実在感がない。これは意識的にそうしているとはいえ、小説を随分と「痩せた」感じにしてしまっている。しかし『あやめ』に登場する、幼い頃を知っているだけで30年以上も会っていないのに、どこからかけてきているかも不明な電話での、電話口でいきなり自分の過去について延々と喋り出す中年女である美代子という人物は、仕種を描写することも姿形を想像することも出来ない「声」だけの存在であることによって、かつてないあつかましいほどの「分厚い」存在感を漂わせることになる。それにくらべれば、「現在」という時制のなかで実際に主人公と「絡む」ことになる、バーテンダーややくざ風の男、主人公を襲い怪我までさせる男などは、ほとんど影絵のような役回りしか与えられていない。はるか昔に、火事で焼けだされたためにほんの短い間だけ一つ屋根の下で過ごしたことがあり、主人公に初めての性的な感情を芽生えさせもした幼い女の子が、30年以上の時間を隔てて、いきなり「中年女性の声」として回帰してくる。これこそが「他者」という出来事てあり、「差異」という経験であって、このような出来事に遭遇してしまったら、ただ「可哀そう」という言葉を呟くことで最大然の共感を示して処理するより、他にどうしようもないではないか、と松浦氏は書くのだった。(この「女」が徹底して「顔」を欠いているというとは重要なことたろう。なにも、「顔」ばかりが「他者」ではないのだ。)
そして何よりも、この美代子という女のする「猫の話」ほど心を揺さぶるものが他にそうそうあるだろうか。美代子という女が、かつて飼っていた猫についての話をするのではなくて、この「猫の話」こそが、美代子という女の姿形そのものを形成しているのだ、とさえ言えるだろうと思う。この「猫の話」があまりにも素晴らしい、というか悲しい、というか、何とも揺さぶられてしまう話なので、思わず松浦氏の口調がうつってしまって、そうなのだ、人生というのは結局こういうことなのだ、などと口走ってしまいそうになるのだけど、「~というのは結局~なのだ」という言い方こそが罠であり、「事後的な思考」そのものなのだ、ということには、充分注意を払わなければいけないのだった。
それにしてもこの小説は素晴らしい。