02/01/18

●濃い青紫の雲がにじんだ絵具みたいに上空を覆い、空の端の雲のかかってない部分は夕日で赤紫に染まっているような夕方、「歳をとってくるとね、今頃の時間が一番嫌なんだよね。暗くなってしまえばなんてことはないんだけどね、ちょうどこんな暮れかける時間は、何て言うのか寂しいって言うかね、何とも嫌な感じになってしまうんだよね。若い頃はむしろ、もうすぐ仕事も終わって帰れるっていうんでウキウキしたもんだったんだけどね。黄昏れてゆくってのは、自分の人生と重なってしまうからなのか知らないけどね、どうもダメなんだよね。」とSさんが言うのを聞いていて、以前、美術批評家のMさんと2人で展覧会をまわっている時、駅から離れた少し歩く場所にある画廊からの帰り道、徐々に暗くなってゆく住宅街を抜けてゆく人気のない道の途中でMさんが、「君はまだ若いから、秋の夕暮れが寂しいなんていう気持ちは分らないでしょうねえ」とポツンと呟いたのを思い出した。Mさんは繊細で詩的な批評を書く人で(ルドンの研究とかしてるし)、どこか浮き世離れしたインテリという風情で、まあ、そういうことを言ってもあまり意外ではないような人なので、「ああ、そうなんですか」なんていう、曖昧で的外れな受け答えをしつつも、「なんと恐ろしい夕方の5時」という詩句だとか、ドゥルーズの此性のことだとかを思い浮かべたりしただけだったのだけど、Sさんは普段の言動なんかからすると、そういうことを言いそうにないような人で、ちょっと意外だったのと、以前に聞いたMさんの言葉と重なったこともあって、「夕暮れが寂しい」という感情のリアルさを初めて思ったのだった。
しかし、ぼくは夕暮れを寂しいとか嫌な感じだとか思ったことがなくて、むしろすごく好きな時間帯で、辺りが薄暗くなり、街灯や家の灯りなどがポツポツ点りだして、でもまだ外光の方が強くて灯りは弱々しく見えるのだけど、ほんの短い間に光の状態が刻々とかわり、みるみる暗さが濃くなってゆき、街灯が眩しくみえるほどに闇が満ちて拡がってゆくような時間に表をぶらぶらと歩いていると、光が弱まるとともに自分の体の輪郭が曖昧にほやけて崩れ、闇とともに大気のなかに流れ出て漂いだすような感覚があって、それは軽い高揚感をともなうような気持ちのよい感覚で、だからその寂しいという感情自体はあまりピンとはこないのだけど、そういうことを感じる人の「存在」のようなものを、リアルに感じたということなのだった。
ぼくが「ダメ」なのは朝からどんよりと重く曇っているような天気で、小学生の頃、目覚めた時から重く曇っていて、雨などもポツポツ落ちてきて、強くはないものの細かい雨がしっとりと着ている服を濡らしてゆくようななかを学校まで行き、そのまま雨が強くなっていって、しかし激しく降るというのではなく細かい雨が静かに濃度を増してゆくように強くなって、校舎を雨が包み込んで他から遮断されているような感じになる、昼ちょっと前の午前11時頃というのがダメで、悲しいとか寂しいとか言うよりも心細い感じで、まわりでは外に出られない級友たちが騒いでいる喧噪が普段よりも大きく、しかしそれがそのままどこかへ吸い込まれてしまうというように現実感のない調子で響いて聞こえ、話し掛けてくる友人の声も煩わしく、世界からスーッと離れてゆくような感覚と、妙に甘ったれたような感情が入り混じって、何とも言えない気持ちになったことが何度かあったのを憶えている。