●何かが破綻するということ。無理に無理を重ね、しかし無理は別に今に始まったことではなく、いつも何らかの無理を抱えてやってきたのだし、むしろ無理を抱えていることの方が普通なのだから、今のこの無理も何ということはないはずで、この先も何とかかんとかこんな感じでやってゆけるはずだと思っていたら、破綻はその時にいきなりやってきたりするのだろう。例えばある組織が破綻する。財政的に立ち行かなくなって会社が倒産する、なんていう事もそんな風にして起こるのかもしれない。倒産ではなくても、今の雪印食品の問題にしたって、このような不正に関わっていた人々は、もしバレたとしたって事がこんなに重大な問題になるなどとは思っていなくて、ちょっとした「うまい立ち回り」のような感覚があって、そんな感覚が積み重なってどんどんと膨らんでこんなところまで来てしまったのだろうし、それを横目でにらみつつ、あれはヤバいんじゃねの、などと思っていた人にしても、その感じを組織のなかでうまく表現し流通させることが出来ないまま、そういう思いを押し殺しつつ日々の仕事をこなしているうちに、軋みは回収不能なくらいまで増大してゆき、しかしゆっくりと徐々に増大してゆくその軋みの大きさにはどうしても無感覚になっていってしまって、何とかこのまま破綻せずに丸く納まってくれるのかもしれないなどという期待に丸め込まれてしまう、という具合なのだろうか。(ぼく自身はそんなに大きな組織の内部に関わったことはないので、全くの推測にすぎないのだけど。)組織だけでなく、勿論人も破綻する。例えば、だいたい同じくらいの年齢の人でも、バブル崩壊前に定年を迎えることが出来た人と、定年がバブル崩壊後にズレ込んでしまった人とでは、その人が抱え込まざるを得ない軋みの大きさは、かなり違うのではないだろうか。戦後の経済成長のただなかで働き、勿論そのなかでも多々の山や谷はあったにしても、その延長線上で勤労生活を終えてすみやかに老後へと移行出来た人と、バブル崩壊によって露呈した様々な矛盾や破綻を目のあたりにしつつ、そこから新たに自分を建て直すことができる程の若さもないまま、亀裂だけを内に抱え込まざるを得なかった人とでは、全く違うだろう。それはたんに老後の生が違うということだけでく、それまでその人物が生きてきた行程のすべてに渡って亀裂が生じてしまうかもしれないのだ。そしてその両者の違いは、その人の人生に対する態度によるものなのではなく、たんに会社に入った年が何年がズレていた、ということだけによる、なんてことさえあるかもしれない。破綻というのは、事後的に考えてみれば破綻して当然なだけの理由がある訳なのだが、それがやってくる時には、多分予想外の時期に、何もこんな時にというタイミングでやってくるのではないか。そんなことを考えると、人間が長く生き続けることの困難さ、年老いた生における修羅の激しさのようなものを思ってしまうのだ。
こんなことを思うのは、古井由吉の『夜明けの家』の最初の一編である『祈りのように』をふと読み返したからだ。晩年に仕事上で大きな齟齬が生じ、しかしそれでも何とか自分にできることは尽し、一通りは責任を果たした上で退職した男が、退職後の妻との平穏な2人暮らしのなかで精神に異常をきたし、長い入院のうちに死んで行き、その入院に付き添い、夫の死を見届け、その後も何年が1人で生きて、死んで行ったその男の妻の話、この2人の話を、その妻の方の知り合いだという友人から聞いた話として話者が語る(しかも、男も妻も、その話をしてくれた友人も、今では死んでしまっている、という時点で語られる)、という複雑な話法によって書かれているこの小説を、初めて読んだ時には、ただただその語りの超絶技巧に驚いたのだが、今回読み返してみて、何と言うのか、人間が長く生きているうちに不可避的に出来てしまう瘤と言うか痼りのようなものの、どうしようもなく解き難い堅さ、そしてそしてそのような瘤や痼りの堅さこそが、その人物そのものと化してしまうような、老年という時期の修羅の激しさのようなものを思わざるを得なかったのだ。しかし古井氏は、そのような「解き難い堅さ」をもった瘤や痼りのようなものを、固着した堅さとはかけ離れた、自由に時空が行き来し焦点化される人物が移動する超絶的な話法と、空を切るような軽やかな仕種の提示によって描いているのだった。(考えてみれば、バブルの崩壊という出来事が古井氏の小説に与えた影響と言うか、亀裂の深さは、古井氏本人の病気と同じくらいに深いのではないだろうか。そんなことを今さらながら、まざまざと感じた、という訳だった。)