02/01/31

●冷たい朝。タイヤのゴムと道路のコンクリートがしっとりと触れ合う感触が、シャーッという静かな音となってたち、自転車はゆっくりと加速しながら坂道を下ってゆく。下り切った後少し上っている傾斜を、下った慣性で漕がずに上る。チリチリチリチリというチェーンの空回りする音。まだ車の通りがほとんどないので、中央の白線を突っ切り、S字のように道路の横幅いっぱい使って蛇行している。アーサー・ランサムの小説で、ロジャが急勾配をジグザグに下ってゆくところから始まるのは『ツバメ号とアマゾン号』だっただろうか、それとも『スカラブ号の夏休み』だっただろうか。右へとカーブを切り、濃い緑の葉をつけたモッコクの生け垣のある駐車場を抜けると、体育館の脇の坂道で、そこを立ち漕ぎで上ってゆき、サッカーグランドの先を左手へ曲がると急に視界が開ける。まだ薄白く光が射し始めたばかりの、重たい雲に覆われた空が、グランドの黒っぽい焦げた茶色の地面と体育館の鈍い銀色の屋根の向こうに大きく拡がっている。グランドの隅にある水道の蛇口の金属部分が、触ると切れる程に冷たく冷えているという感覚を誇示すように、そこにまとわりついた夜露が粉をふいているみたいに白く凍っている。
●昼間は、空が冬の間にもそう何度もないような、濃く深く鮮やかで透明な、恐ろしいような青だった。その青の真ん中に、信じられねえ、というような、巨大な一繋がりの雲がひとつポッカリ浮かんでいて、ゾクゾクするような白い光を発していた。
●顔はなんとなく見掛けたことがあり見覚えはあるのだけど、一度も言葉を交わした事などない人から、この前は名前を間違えてしまってごめんなさい、とすれ違いざまに謝られた。その人から間違えた名前で呼ばれた記憶などなく、多分その人は他の誰かと間違っているのだろう。つまり、名前を間違えられた人、その名前を実際に持っている人、そしてぼく、の三人がその人の頭のなかでは見分け難く混乱していて、その三人のうちのぼく以外の2人が誰のことだかぼくには分らず、しかも間違えて混乱しているその人のこともほとんど知らないし、その人と「その人に名前を間違えられた人」との関係もぼくには分らないのだった。