03/11/18

横浜美術館中平卓馬・展。恐らく中平氏だと思われる人が、恐らく奥さんだと思われる女性と二人で展示室にいた。奥さんだと思われる女性は、会場のベンチに腰をおろして、ゆったりと本を読んでいて、中平氏だと思われる人は、写真に触れるのじゃないかというくらいに顔を近づけて、とても熱心に観てまわっていた。閉館10分くらい前になって、恐らく奥さんだと思われる女性が、そろそろ帰りましょうか、と声をかけて帰っていった。いや、ぼくは写真について全然詳しくはなく、中平氏の風貌は小さなポートレイトで見ているだけなので、全くの別人かもしれないのだけど。

●ぼくはいわゆる「写真」というものにあまり興味がないし、ほとんど何も知らない。例えば「森山大道」という固有名はかろうじて知ってはいるが、その作品のどこが面白いのかはさっぱり分からない。中平卓馬という名前も、この展覧会によって知ったようなものだ。一応、展覧会の図録と、中平氏による『中平卓馬の写真論』という本を美術館で買っては帰ったが、図録をパラパラとめくったくらいで、解説の文章や本はまだ読んでいない。このような、ほとんど予備知識のない状態で、作品を観ただけの状態で感想を書いてみる。

●ぼくが興味を惹かれたのは「原典復帰--横浜」と題された一番新しいカラー写真のシリーズだった。この展示では、例えば神社ののぼりと横たわるホームレスの男とが、ともに「木漏れ日を浴びるもの」として並置されていたり、すくっと伸びるタケノコと、すっと立つ若い女が並置されていたり、「まるくなって眠る」ホームレスの男と猫とが並置されていたりする。この並置がどこまで意図的なものかはわからないが、少なくとも中平氏の写真においては、ホームレスの男も神社ののぼりも、ともに「木漏れ日を浴びるもの」として同等の存在(イメージ)であり、タケノコも若い女も、すくっと立っているという点で同等であり、ホームレスの男も猫も「眠る時にまるくなる」という点で同等なのだ。これらの写真から見て取れるのは、たんに見えている通りのイメージであって、それ以上のものではない。写真からはホームレスの男の生活のきつさや今までの人生の重み、あるいは社会的な告発などは読みとることが出来ない。そこにあるのは、動く度にガサガサと音を立てそうな硬くて粗末なジャンバーであり、それを着て横たわる男の顔であり、そこに当たる日の光であり、枕のかわりに頭の下にあるコンビニのビニール袋であり、ベンチの剥げかけた塗装であるに過ぎない。そしてそられの細部は、岩を登る蛇の鱗の光沢や、振り返る猫のヒゲの垂れ具合や、木にぶら下がる「白玉梅」と書かれたプレートを支える紐に巻き付いた針金などと「イメージ」としては同列なものとして並べられている。たき火の燃える炎も、しぶきをあげる流れの速い川の水面も、地面から無造作に生えているアロエも、それらは「それ」である以上の意味をもたず、「それ」というしか名付けようもない、何物も代表せず、何物の比喩でもない、そのイメージとしてあるのだ。

●中平氏は、フレームというものをどう考えているのだろうか。例えば「原典復帰--横浜」の作品は、展示ではとても微妙な縦長のサイズで統一されていて、この縦長の比率は、そこに写っている対象そのものを強調するわけでもなく、構図やビジュアル的な効果としてキメやすい比率でもなく、なんとも中途半端な決まらない縦横の比率のフレームで、このことが中平氏の写真のあり方を決定しているようにも見えてとても興味深かった。つまり、パネル化されて展示されている以上フレームは強く意識されるのだが、なんとも収まりの悪い縦横の比のフレームに、何故ここで切るのか分からないという切り方で対象が切り取られているので、写真が(イメージが)フレーム内部で完結している感じがしないのだ。しかし、並べられている写真同士は組写真のような関連性は薄く、だから見る者は別の作品との対比によって、あるいはシリーズ全体の流れや構成によって、その中でイメージに位置を与えることもできない。だから個々のイメージの細部はクリアに捉えられるのに、その細部を位置づける文脈を見つけることができず、イメージは帰属する場所を得ることが出来ない。(イメージは理由なく「いきなり」あらわれ、理由のないままでありつづける。)だいたい、中平氏の写真における対象との距離にも独自なものがあり、決して「肉迫する」というような近い距離感ではないのだが、しかしその場の状況がよくわかるような写真はほとんどなく、場全体を引いて見るような距離感でもない。ズームアップではないが、状況の説明もしない、絵としても決めない、という何とも収まりの悪い距離感は、「原点復帰--横浜」のシリーズだけでなく「新たなる凝視」のシリーズやそれ以前においても共通した特徴だろう。この収まりの悪さによって、イメージが文脈から浮き上がることによってこそ、説明抜きに「いきなり」イメージが提示されるようなリアリズムを可能になるのだろうと思う。(しかし、図録では、そのような独自のフレームサイズはすっかり無視されていて、たんに図録のサイズに合わせられトリミングされていたのだった。つまり中平氏は、美術館に「展示」する時に必要なフレームのサイズと、図録という「本に載せる」時に必要なフレームサイズとの違いに充分に意識的であるということなのだろう。)

●「原点復帰--横浜」が、それ以前の作品と異なる最も大きな点は「カラー」であるということだろう。対象のもつ色が写ってしまうというどうしようもなさ、制御することの困難さを積極的に受け入れことが中平氏のリアリズムに与えたものは大きいのではないか。(74年頃の都市の建築物を撮っていたカラー写真は、それ自体が、既にある雰囲気やトーンの制限をもったものが撮影対象として選ばれていたようにみえる。)しかしそれと同時に、色彩があることでモノクロのようにあくまでシャープでクール(非人間的、客観的)な感じで通すことは困難となり、感情的情緒的なもの、ある柔らかさや暖かさ、あるいは緩さのようなものを嫌でも導入されてしまうのだが。