03/11/20

●目的もなくネットを彷徨っていた時に、前後の脈略と関係なくふと目についた言葉に次のようなものがあった。それは学生が大学の教師から言われた言葉で、ある論文が良いものかどうかはプロであれば一目瞭然で判断できるが、それはプロでなければ分からないのだ、というような意味だった。つまりこれは、目利きになれば真贋は一目で分かるが、目利きでなければそれは判断できるものではない、と言っているわけだ。このような抑圧の仕方が、大学という閉じた場所での「教育」にある程度有効に機能するのだろうということは否定しない。それどころか、そのようなやり方でしか教育することのできないものがあることは確かだとさえ思う。教育とは常に非対称的な関係性であり、生徒は教師の押しつけてくる体系を一度無条件に受け入れなければ、それを転倒することすら出来ない。(この点について個人的には、予備校で大学入試のためのデッサンを学んでいた場を思いだす。)しかしこの時、教師と生徒という立場を分けるものは何なのだろうか。それが、生徒の教師への尊敬であるとしたら、生徒は、現在自分が持っている価値観による「尊敬」によってしか教師を選べない。その場合、生徒は生徒の身の丈に見合った教師を選ぶことしか出来ず、そこでは未知の知には永久に巡り会えない。(実際には、カンのよい生徒は相対的に優秀な教師を選ぶことが出来るのだろうが。)あるいは、教育という制度によって認定された「教師」という資格や、社会的に与えられた「目利き」という称号が、教師が教師であることの権威を保証するのだろうか。その時、生徒が教師が押しつけてくる「知の体系」を信頼し受け入れることが出来るのは、その資格や称号を与える社会や制度への信頼や依存によってであろう。大学教師が自らを堂々と「プロ」だと名乗ることができるのは、その学生もまた自分と同じよう学者や研究者として生活したいと願っている(プロ志望者である)からこそであり、プロはプロ志望者に向かってのみ「プロ」だと言って威張ることが出来る。それはある制度的共同体の先住民が、新たな移住者に向かってしきたりを教えているということに等しい。もし、ある論文の「良さ」がプロにしか分からないとしたら、その論文の意味は、互いをプロ(共同体の正式な成員)であると確認し合うためのサインという以上のものはなにもないということになってしまうだろう。制度とはこのようにしてつづいてゆく。(現実には、「市場」というものの圧倒的な力によって「制度的な共同性」は解体の危機に瀕しているのだろうけど。)

●ぼくはここで、そのような制度などくだらないと言いたいのではない。むしろ、そのような制度(の抑圧)によってはじめて蓄積し発展し得る「知(の水準)」というものがあるはずで、それを決して甘くみるべきではないと言いたいのだ。勿論、ぼく個人としては、そのような制度など、気にくわないし鬱陶しいと感じる。しかし、制度によってはじめて蓄積し発展し得るものの「意味」を(意味を可能にする「緊張状態」を)、制度そのもののくだらなさに還元することは出来ないのだとも思う。人は、それぞれが囚われている制度的な文脈をそう易々と解体出来るものではないし、また、必ずしも性急に解体するのが良いというわけでもないと思う。

●しかし、当然のことながら、人は制度的な共同性のなかでだけ、つまり教師と生徒だとか、先輩と後輩だとか、えらい人とえらくない人とか、優秀な人とそうでない人だとか、そういう関係性のなかだけで他人と関係するわけではない。むしろ個人的な関係というのは、そういうもの(象徴的な関係性)の外で、たんに好きだとか、気が合うだとか、面白いだとか、性的に惹かれるだとか、そういうことによって個別的に関係するのではないだろううか。なによりも鬱陶しいのは、制度的な関係性(象徴的な関係性)そのものであるよりは、その外にあるような個人的な個別の関係性の場においてさえも、私はえらい人だとか、俺の方が先輩だとか、金を出しているのは私だとか、そのような制度的な位置づけを持ち込もうとすることであると思う。個別的な他者への配慮とは、象徴的な位置関係への配慮とは全く別のものであるはずなのだ。