03/11/23

●昨日につづいて、ギャラリー千空間の堀由樹子・展について。(と言えるかどうか...)

●(2)時間(の厚み)について。単純にコミュニケーションの効率性という意味では、作品をつくることはおそろしく効率の悪い行為であり、それを普遍性と言ってしまってよいのかは保留したいのだが、(過去への参照も含めた)ある「時間の厚み」を信じることによってしか、制作という行為は支えられない。以前この日記で樫村愛子の論文に書かれた「若者たちのポストモダン的な共同性」について触れた。そこでは「繋がっている」というメタ・メッセージのみを常にやり取りすることで、人工的な共在空間を構築するという関係性が描かれていた。この時に必要とされるコミュニケーション能力とは、その場の空気をすばやく察知し、自分や他人の自意識(承認の欲望)を鋭敏にかぎ分けて、それを「笑い」などによって巧みに脱構築するような能力であろう。(「承認の欲望を解体する能力」こそが他者からの承認を得る。)この能力は、その場で最も高い「効果」が期待されるボケやツッコミを瞬時に繰り出すことの出来るパフォーマンスの能力であり、このような能力によってある共同性がかろうじて維持される。このような関係性は、自然な(制度的な)支えが希薄なために常に不安定で、まさに高度なコミュニケーション能力によってのみ支えられている。例えば、人気のある「はてなダイアリー」で、ひとつのトピックに対して次々と「気の効いたコメント」が並んでいるのを目にするとき、まさに「若者たちのポストモダン的な共同性」を思い起こすことになる。ここではまずなによりも「愛の場」を構築するための配慮が必要であり、そこで提供される話題がその場のなかで「タイムリー」であることが要求される。そして、このような関係性がきわめて不安定なもので、「愛」と「高度なコミュニケーション能力」によって辛うじて成立しているものであることは、東浩紀の日記の停止などの例をみればよく分かる。このような関係性の場におていは、常に「現在」に関わる、即効性のある「効果」が期待されている。作品をつくるという行為、または作品を観るという行為は、そのような関係性がもつコミュニケーションのあり方とは対極にあるのかもしれない。作品をつくっている間は、自分の行った行為は自分自身の感覚にしか「効果」を及ぼさない。これは全く閉じたループであって、例えば、画面に一筆入れるだけで作品が生きたり死んだりするのだけど、その時の感覚の大きな振幅を感じているのは、その作品に手を入れている自分だけなのだ。制作の時間とは、言ってみれば、自分の行為が自分自身にしか効果を及ぼさないという、絶望的に閉ざされた時間のなかを彷徨うような時間であるのだ。(そして、作品を「観る」時でも、人はその作品に「自分の感覚」でしか触れることが出来ないのだ。)しかも、そのようにして作品が出来上がったとしても、それが他人に対して何かしらの効果を及ぼすという前もっての保証などどこにもない。閉じたループのなかで孤独につくられ、つくっている本人でさえどこに向かうのか必ずしも明確ではないものが他者に(あるいはある「場」に)タイムリーな効果を与え得るなどということを、あらかじめ期待することなど出来るはずもない。しかし、作品とはおそらくそのような「時間の厚み」のなかでしかつくられない。そして、一見まったく孤独につくられた「閉じた制作物」でしかないように見えるかもしれない「作品」の方が、返って、それが効率的に作用するであろう「場(文脈)」を前提につくられたものよりにずっと「開かれた効果」をもつ、と言うか、「開かれたものであり得る強さ」をもつことになるはずだという事が信じられなければ、作品などつくってはいられないだろう。堀由樹子の絵画作品は、このような「時間の厚み(への信頼)」を、とても強く感じさせるものだと思う。