03/11/24

西尾維新きみとぼくの壊れた世界』。薄味と言うか、もっと短く書くべき題材を水増しして引き延ばしたように感じられてしまうのは、以前の作品(ぼくが読んでいるのは『クビキリサイクル』と『クビシメロマンチスト』、『クビツリハイスクール』)では、その物語や作品世界の構築と、主人公で話者の「いーちゃん」の饒舌(戯れ言)とが分かちがたいものとして結びついていたのに、この小説では、物語の内容と語りの饒舌さとが必ずしも密接に結びついているとは言えず、だから主人公のシニカルで饒舌な語りがしばしばたんなる饒舌として浮いてしまっているからではないだろうか。逆の言い方をすれば、饒舌な語りが作品を成立させるための装置としてうまく機能していないために、語りの内容が(作品の成立のとは無関係な)そのままのナマな(マジな)意見の表明のようにも読めてまう。つまり語りが「芸」として成立していない。あるいは、この小説では饒舌さが作品を動かしてゆくような感じがなくて、多くは登場人物たちの「会話」として示されているため、饒舌な語りをすっぱりと切り落としてしまったとしても、シンプルなミステリとして話は充分に通じるし、短編としても成立してしまうように思える。(例えば、主人公・櫃内様刻と妹・夜月、あるいは探偵・病院坂との間で交わされるミステリに関する「うんちく」は作品世界の構築や雰囲気づけにあまり貢献しているとは思えないし、「壊れた世界」と題されるその「壊れ様」が、たんに様刻や病院坂の語るシニカルで偏った世界観によって「セリフで説明」されるだけで、作品そのものの形態として表現されているわけではないこと。作品そのものの形式は、きわめてこぢんまりと纏まったライトなミステリと言えるだろう。)この小説は、一方にほとんどファンタジーの領域と言える、様刻と夜月による閉ざされた近親愛的世界があり、もう一方に、多分にキャラクター小説的なデフォルメがなされているものの、リアルな学園生活(における人間関係)が描かれている部分とがあり、この二つに分けられるだろう。(「二人だけの家」で行われる様刻と夜月との行為の全てが様刻の妄想だとしても、物語は成り立つだろう。)そして、その両方ともを「語る」主人公=話者の語りは、過度にシニカルで観念的であり、自己言及的でもあり、つまり解離的である。このような「語る主体」の極端に偏った性格によって、ファンタジーの領域と現実的な領域とがスムースに結びつけられる。(語り手の現実から解離しているような極端なアンバランスさは、彼が十代の少年であることで、ある程度の説得力をもつ。)ファンタジーの領域である様刻と夜月の関係は、それがファンタジーの領域に留まっている限りは人畜無害であるし、それどころか、そのようなファンタジーによって様刻の学園生活=現実は支えられ、維持されているという穿った見方さえ可能だ。つまり一見アンバランスであるようにみえるこの世界はちっとも「壊れて」などいなくて、きわめて安定してさえいるというべきだろう。

だが実は、この小説の世界が本当に「壊れたもの」であることが分かるのは、事件が解決された後の、作品の幕が今にも引かれようとするときなのだ。ここで、ファンタジーの領域の浸食によって現実が押し流され、矛盾も葛藤の摩擦もない「閉ざされた完璧な世界=妄想によって覆い尽くされた世界」が出来上がってしまうのだ。つまり、学園生活に存在した人間関係の摩擦の一切が綺麗に消えてしまい、そこに完璧に「愛」と「繋がり」だけによって成立する世界が出現してしまう。ここではまさに「愛」と「繋がり」が全てに対して優先していて、人の「死」さえもが「友情」の前で「なかったこと」であるかのように処理されてしまう。(辛うじて、迎槻・琴原と病院坂の間には確執が残るのだが、この小説の世界を、主人公の様刻を中心としたものとした場合、彼にとっては世界の摩擦の全てが消え去ってしまうことになるのだ。)この、グロテスクに閉じた妄想の世界こそが、完璧であることによって「壊れている」ことは言うまでもないだろう。(この小説に穿たれた唯一の「穴」は、迎月によって語られる病院坂との過去のいきさつであり、それがもたらした迎月・琴原・病院坂の三者の関係に生じる微妙な齟齬であろう。だから、もし、この小説の世界を閉ざされたままにしないと言うのならば、是非、同じキャラクター設定で、迎槻・琴原・病院坂の中学生時代の話と、もう一つ、妹・夜月の視点から語られる別の話とが、シリーズとして追加されなければならないだろうと思う。)