03/11/30

多和田葉子『容疑者の夜行列車』。これは面白い。この小説の主人公は徹底した移動する「感覚受容器」であって、自らの身体をイメージとして(想像的に)把握することをしない。つまり統合された自己像をもたない。このことは、主人公が常に「あなた」と呼びかけられていることと深く関係する。例えば《あなたは、いつも列車の乗車時刻よりもずっと早く駅についてしまう癖がある。》という文を読む読者は、「あなた」という二人称で話者に呼びかけられるのが主人公であると同時に「わたし=読者」であるという感覚をもつ。この時、発車時刻よりずっと早く駅につく癖など身に憶えのない「わたし=読者」はまるで、ちっとも眠くないのに、「あなたの瞼はだんだん重くなる」と催眠術師に語りかけられているかような、眠いわけでもないのに瞼が勝手に下がってしまうような、妙な感覚の解離を覚えるだろう。(だいたい、今、本を読んでいる「わたし=読者」は大陸を旅してはいないし、ダンサーでもない。)この不思議な感覚こそが、慣れない場所を移動しつづける主人公のダンサーが感じつづけている外界の肌触りと重なりあう。話者が「あなた」と語りかけるからには、語りかけられているのは主人公であると同時にその文を読んでいる「わたし=読者」でもあるはずで、その妙な感覚は文中に「あなた」という単語があらわれるたびに蘇り、読者を縛り続ける。で、主人公が半ば読者と重なり合うということは、読者が男性であれば主人公は男性で、読者が女性であれば主人公は女性としてたちあがるということになる。実際には、小説を読み進めると、主人公はどうやら女性であるらしいという気配は強く感じるのだが、しかしそれは決して明確には記述されない。前述した通り、この小説の主人公は自らの身体をイメージとして把握(統合)してなくて、自らの像を自ら見返すということをしないからだ。例えば、全部で13の断片からなるこの小説のちょうど折り返し点である第7輪で主人公が夢のなかで風呂にはいる時、はじめて自分自身の身体を自分で「見る」のだが、そこで自身の身体は《ふっくらとした乳房の間から、下の方で揺れている男性器が見える》と記されるような両性具有としてあらわれるし、終盤の第12輪では《その頃、自分が女性で日本人だというアイデンティティに少しも疑いを感じずにいた》にもかかわらず、パスポートを開くと、そこに貼られた写真の顔は、《男の子だ。年は十七くらいか。しかも、そこにあるの字は日本語ではなく、これまで見たことのない字だった。》というわけなので、自分のイメージを決定的に把握することができない。(そしてそれは他人ごとではなく「あなた」と直接呼びかけられる「わたし=読者」を揺るがしもするのだ。)それだけでなく、大陸を電車で移動しつづけるこの人物は、その移動を軌跡を決して俯瞰的に把握しようとしない。つまりこの小説における空間の移動は、次々に移り変わる目の前の光景(が「感覚」に与えてくるもの)の変質の連鎖であって、地図上での位置の変化によって把握されるような「空間の移動」ではないのだ。ただ唯一、これも折り返し点の第7輪の冒頭に地図上での位置に関する記述がみられるのだが、それも《世界地図を広げてみると、シベリア大陸の真ん中に、ひきつれた割れ目が一つある。そのせいで広々としたユーラシア大陸も、いつかは二つの割れてしまうかもしれないと不安になる。》という風に、この、地図上のバイカル湖の描写も、俯瞰的な位置の把握のためではなく、割れ目=亀裂が指摘されるために地図の視点がもちいられているのだ。

●例えば、吉田修一の『パーク・ライフ』では、それぞれに密接な繋がりが見いだせないようなバラバラな細部の連なりが、小説のラスト近くで主人公が想像する「俯瞰的な視線」によって統合される。これは超越的な視点(父の視点)というよりも、むしろラカンの言う鏡像段階における鏡像による自己の想像的な統合に近いと思う。幼児の身体は、自ら制御出来ない無数の力の重なりとしてあるのだが、それが鏡に写る自らのイメージ(外側から与えられた輪郭)によって自己を統合することが可能となる。『パーク・ライフ』の「赤い気球」からの視線は、鏡像のように機能し、小説をまとめ上げる。だが多和田葉子の『容疑者の夜行列車』は、外側から与えられる自己像(による統合)を出来うる限り排除している。だが、だからと言って身体による「内的な感覚」ばかりが特権的なものとなっているわけでもない。ここで、外側から見られた像に頼らず、しかし内側からの感覚をも特権視することなく相対化し、その上で作品を作品としてまとめることを可能にしているのが、(今更ながとらと言う感じではあるが)エクリチュールと言うべきものだろう。ここでいう、想像的なものによる規定を逃れ、内的な感覚をも相対化する、その中間にあるようなものとしてのエクリチュールとは、ちょうど列車の進行のような半ば自動的、機械的に進行するもの、運動を規定するある(世界の)振動(拍動)のようなもののことだと言えるのではないだろうか。(つまり「象徴的」ではない言葉の使い方。)言い換えればそれはある一定の「足取り」のようなものだとも言える。『容疑者の夜行列車』が、外側から自分自身を規定しようとするイメージの縛りを逃れ、像が結ぶか結ばないかの揺れ動く不安定でスリリングな領域において(世界の)細部のリアルな肌触りを捉えつつも、ヒューム的な感覚の混乱に至ることなく、かと言って俯瞰的な視線を導入することもなく、作品が作品として成立する秩序を形成することが可能であるのは、その作品がある一定の運動性やリズム感によって制御されているからだと思う。(保坂和志は『書きあぐねている人のための小説入門』で、このような小説のあり方を「エクリチュールの戯れ」と言って否定的に捉えていたけど、それは間違いだと思う。エクリチュールとは恐らく、主体の前にある、世界の拍動=反復そのものを捉えようとする時に不可避的に問題にせざるを得ないもののように思う。)

●『容疑者の夜行列車』の主人公はダンサーである。人から、その身体を見られることを職業としているダンサーが、この小説では自らのイメージを自らで把握することを拒否している。しかし考えてみれば、ダンサーが見せるのは身体のイメージではなく、身体の運動であるはずだ。ダンサーは、身体のイメージにとらわれることなく、その身体からいくつもの運動のバリエーションを引き出さなければならない。この小説はそのように書かれている。このことは、第11輪「アムステルダムへ」のあるエピソードが的確に示している。主人公の「あなた」は、鍛冶屋という名をもつ嫌な振り付け師との仕事の途中で稽古場を飛びだしてアムステルダム行きの列車に乗る。

《あなたは身体を見られたり、姿勢を直されることには、慣れ過ぎるほど慣れていた。しかし、身体の部分には、乱暴に触られるとひどく腹の立つ箇所というのがある。例えば、内側のくるぶし。脚を開いて立っているあなたの股の間に、鍛冶屋が自分の脚を差し入れて、内側のくるぶしを蹴って、もっと脚を開かせようとする。あなたは、かっと火がついたようになって「蹴るな!」と叫びそうになる。(略)別にそれほど痛いわけでもない。仕事中は、着地に失敗して脚をひねったりして、もっと痛い思いをすることも日常茶飯事だ。それでも腹が立つ。(略)それから、顎。顎の向きを変えさせられるのはいいが、顎を持ってぐいっと上に向けさせられた上、励ますように二度、ぴちゃぴちゃと頬を叩かれた。もちろん痛くはなかった。しかし、頬がかっと火照って、あなたはもう少しで目の前にある鍛冶屋の鼻に唾をひっかけてやるところだった。(略)あなたはその時のことを思い出して、自分で自分の両方の頬をぴしゃぴしゃと何度か叩いた。かっと怒りのような反応が肉の中から飛び出してくる。他人の感情のように。そうだ、肉の中には自分の分別とは関係なく勝手に動き出す感情が潜んでいるらしい。あなたは好奇心をそそられて、もう一度、こんどは強く、自分の頬を平手でひっぱたいた。憎しみが苦い汁のように滲み出してくる。不思議だ。(略)身体の中から怒りの発生する場所が手で触り出せそうな気さえする。目を閉じて、もう一度叩いてみる。もうちょっと強く。もう一度、もっと強く。人の気配を感じて振り返ると、斜め後ろに女性の車掌が一人立って、不思議そうにあなたの方を見ていた。》