03/12/14

フセインが見つかったと言っても、大量破壊兵器が見つかったわけではない。イラクがどうなってしまうのかということに関心がないわけでは勿論ないが、ぼく(という限定された個人)はどうしても、今自分が住んでいる場所、日本がどうなってしまうかが気になる。正当化できる理由など何もないままアメリカがイラクを攻撃し、それがズルズルと泥沼化して、その攻撃を根拠づける最大のものだったはずの大量破壊兵器の有無すら明確にならないまま、日本がアメリカ側として軍隊を派遣しようとしているという世界のなかにいる時、何かを表現するということに一体どのような意味があるのだろうかということを考えざるを得なくなる。例えば、世界中で反戦デモが盛り上がったとしても、その効果によって戦争が回避されるなどと考えるのは、やはりあまりに甘い(自己陶酔に近い)考え方と言うしかないだろう。しかしだからと言って、はぁーっとため息をついて、やれやれと暗い顔で呟くだけなのと、何かしらの意志を表現することとでは、どこかに違いがあるはずだ。この違いが把握できなければ、冷笑的なニヒリストになるか、やたらポジティブシンキングの馬鹿になるかどちらかしかないだろう。不快なことを不快だと、耐え難いことを耐え難いと表明し記述すること、それがこのようなコンピューターのディスプレイ上の無力な文字列として並ぶことに、では一体どのような現実的な効果が期待できるというのか。それは言葉(表現)への信仰=幻想でしかないのではないか。あるいはたんに、それはぼくという個人が何の力ももたない無力な者であるということを表しているだけなのだろうか。例えばスピノザは、「善」とは自らの「能動性」が増すということだと書く。しかし樫村晴香によると、後期ストア派の認識はそれとは異なるものだったそうだ。マルクス・アウレリウスは政治的にも強大な権力を持つ極めて「能動的」な人物であったが、彼が直面したのは《認識と力が増えるほど、自己の手中に入らない膨大な統御不能領域が見えて来るという、極めて受動的な状態だった。》《現在ある世界と人間の姿が必然的なものとして理解され、その汚濁と愚鈍さを含めて、そのようなものとしてあるしかない、全体の因果的連関と現在に至る経緯が、強固に自己主張しはじめる》。世界は「そのようなものとしてあるしかな」く、それに介入することの出来る可能性は極めて限定的でしかない。《世界全部を焼き払うのでない限り、変えられる部分は驚くほど僅かである。》個人の生は極めて限定されたものであり、その能動性は驚くほど僅かだろう。だからこそ《限定された選択とその帰結に身をまかす》ストア派は、その限定性をどのように有効に使用するのかについて実践的に思考する。しかしそれはたんに、身の丈にあった日常のなかでささやかに生きろ、ということではないと思う。例えば、ぼくには小泉首相が馬鹿であるという事実をどうすることも出来ないし、多くの人がその事実を知りつつも、あのくらい独善的な人物がごり押しするのでない限り、現在の日本の疲弊し機能不全に陥った諸制度を変えることが出来ないのだと半ば諦めつつ思いこんでしまっていることについても、どうすることも出来ない。だが、知り合いのすごく気のいいおっちゃんが、「憲法なんてさっさとかえちゃって、自衛隊がテロリストをどんどんやっつけられるようにしちゃえばいいんだよ」と素朴に口にすることに対して、どのような言葉を使えば「話」を交わすことが出来るのかということについては、もう少し真剣に考えなくてはならないのかもしれないと思う。耐え難いことを耐え難いものとして記述する営為、表現が、記述が、現実的な効果へ繋がるような「通路」を考えるというのは、そういうことなのではないだろうか。(引用は、樫村晴香ストア派アリストテレス・連続性の時代』より)