ぼくの作品は色彩の使用が...

●最近のぼくの作品は色彩の使用がきわめて限定的なものに留まっていて、その理由についてよく聞かれる。その理由のうちの大きなものの一つは、現在ぼくが主に使っている絵の具がカラージェッソという、本来絵を描くというよりも、下地に使う色材を使用して描いているからだ、ということがあるだろう。カラージェッソは、普通の油絵の具やアクリル絵の具に比べて色の数が極端に少なくて、さらに「使える色」(色彩として「いい色」であり、かつ、ぼくの「趣味」にかなう色)はさらに少ない。ぼくの(絵を描く時の)色彩の好みというのは、かなり大きな「偏り」があって、例えば油絵の具を使って絵を描く時、赤系統の色で基本になるのが(バーミリオンのような、メジャーでそれだけで美しい色ではなく)「ブライトレッド」という(それ自体としてそれほど美しいというわけではない)マイナーな色だったり、緑系統だったら「クロームグリーン」という、これまた(地味で)マイナーな色だったりして、これらの色を基本にして、数種類の赤(あるいは緑)を複雑かつ微妙に混色して使うわけだけど、カラージェッソではそれらの基本になる赤や緑の代替物となるような色(で「使える」もの)が、存在しない。赤系統で使えるのはレッドオーカーという、赤というよりレンガ色に近い色だけだし、緑や黄色は全く「使える」ものがない。(だから緑色は、青系の色とイエローオーカーを混ぜた、エメラルドグリーンを鈍くしたような色、黄色は、茶色系の近似色、例えばイエローオーカー、でまかなうしかない。)ただ、茶色系統の色が割合豊かで数種類使えて、あと、青系統が、セルリアンブルーとコバルトブルーとネイビーブルーという3つの色が、その都度配合を微妙に調整しつつ混色することで、何とか「使える」ものとなる。(それらの限定された色彩に、顔料を加えることで微調整することは出来るが、それはあくまで微調整であり、基本的には大きく変化しない。)つまりはじめから(なにかを意図する以前から)、使える色数が限定されているのだ。
それでもなおカラージェッソを使うのは、その質感、マットで粉っぽくて、乾いた物質が、麻の布の上に「へばり付く」ような感じが、感覚的にとてもしっくりいっている(気に入っている、強く惹かれている)からなのだ。それにぼくはもともと、派手な色の強いぶつけ合い、や、澄んだ色の澄んだ響き合い、のようなものを「趣味」としてあまり好まず、濁った(不純な)色の澄んだ響き合い、のようなものを求める傾向がある。加えて、今の僕の作品は、「手で描く」ことと「目で描く」ことの間のある種の拮抗によって成立していて、強い色彩の使用や、色数の増加は、自然と「目の優位」をもたらしてしまうからだと考えられる。さらに付け加えれば、豊かな色彩は、そのまま「豊かな色感」を意味せず、例えば、多くの色彩を自由自在に操れるということよりも、白と黒だけの画面から、いかに豊かな色感を感じさせるような作品をつくることが出来るかということでこそ、画家の才能が問われるのだ、と思っているようなところがある。