恵比寿ガーデンシネマで、ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティ

恵比寿ガーデンシネマで、ウェス・アンダーソンライフ・アクアティック』(これは昨日観た)。これは素晴らしい。一言で言えば、メディアを媒介とした「偽の懐かしさ」を基調にして、ファミリーとカンパニーのうつくしい嘘の物語を、ただ、個々のシーンの充実だけによって成り立たせたような映画だと思う。あらゆる細部、あらゆる人物、あらゆる背景が、人工的で薄っぺらでインチキ臭い偽物なのだが、その(外部のない)偽物の世界を徹底し、そのなかで「典型的な物語」を(再)構築することでしか、自分たちの生きているリアリティは示すことができない、というようなアメリカ映画の傾向があり(と言うか、それこそが伝統的に「アメリカ映画」なのかもしれないのだが)、例えばポール・トーマス・アンダーソンなんかがその代表と言えるだろうし、もっと大きくみれば、ティム・バートンとかデビッド・リンチなんかも含まれるかもしれないそのような傾向の映画を、ぼくは「頭」では、そういうのはアリだし、それこそがリアルなのだろうと理解はするものの、「趣味」としてはどうしてもどこか受け入れがたい感じがしてしまうのだが、この『ライフ・アクアティック』には完全にやられてしまったのだった。
●この映画の説得力を支えているのはおそらく、あくまでちまちました細部の冴えと充実であって、物語ではないと思う。この映画が語る、あまりにうつくしい「嘘の物語」から、様々な解釈を引き出すことは可能だろうと思うけど、実際にこの映画の物語が語っているのは、せいぜい「物語はどうしても家族的なものに吸引されがちだ」ということくらいではないだろうか。この映画の野心は、薄っぺらな嘘の物語を(というか、薄っぺらな嘘としてしか表象され得ないようななにがしかの切実さを)、どのようにして真に迫ったものに転化出来るのかという点にこそあるのではないか。この映画には、凋落しつつある父の姿があり、その父と息子の関係の緊張があり、父から息子への継承があり、ホモソーシャルな空間のなかでの嫉妬などの繊細な感情の波立ちがあり、女性をめぐる三角関係があり、「夢」へと向かう集団のうつくしい姿があるのだが、これらの物語はありふれたものの借り物であり、彼らのつくる海洋ドキュメンタリーと同じくらい嘘臭い。しかしそれでも、永年の友人の死という現実さえも、嘘臭い海洋ドキュメンタリーを通じてしか表象し得ないとすれば、他人のものをくすねてあたかも自分のもののように使い、ありふれたものをかけがえのないものへと転化させるしかないだろう。そのためにこの映画がするのが、全体としてどことなくインチキ臭さを漂わせ、インチキ臭い細部をインチキ臭いものとして充実させることで、逆に、「嘘の物語」の「嘘」を気付かせないようにすることではないだろうか。「嘘を気付かせない」というと、あまり良い意味にはとれないかもしれないのだが、細部の映画としての充実のみが「嘘(のリアルさ)」を支える基底として賭けられていて、それ以外の(言い訳めいた「保険」のような)仕掛けが一切ないということが、たんなる嘘を嘘以上のものにしているのではないかと感じるのだ。
●例えば、主人公のズィスーという人物は、主演のビル・マーレイによって演じられることではじめて成立し、説得力をもつような人物であるだろう。ビル・マーレイという俳優の何とも絶妙なインチキ臭さは、映画全体のトーンを決定し、そのトーンと共鳴しつつも、ある種の「カリスマ」が(現実に)持つうさん臭さともリアルに重なってみえる。このような人物は、映画を撮るという行為(演技、演出、撮影、編集、その他諸々)のなかでのみ形作られ、その外側に何の「保証」をもたないように思われる。このような言い方は分かりにくいかも知れないのだが、つまり、事前のキャラクター設定とか狙いとかに、頼っても縛られてもいなくて、「映画を撮る」具体的な行為の積み重ねのなかではじめて立ち上がってくるようにみえる、ということなのだ。そしてこの映画のびっしりと詰まったあらゆる細部が、そのようにして出来上がっているように思える。勿論実際には、事前に様々なアイデアがあり、練られた脚本があり、作品を成立させる一定の勝算がありはするだろうし、それは当然なのだが、少なくともこの映画は、企画の段階である程度勝算がみえている、とか、キャスティングが決まった段階で映画の8割は成立しているとか、そういった映画ではなく、具体的な撮影という行為のなかで形作られる、細部の徹底した充実のみによってしか勝機のないようなものとしてつくられていると思う。
●この映画を観る観客は、まず目を眩ませられるような細部の連続を追いかけることになり、それが、ふと気付くと、結構オーソドックスな物語が語られていることに事後的に気付く、のではないだろうか。それは決して、オーソドックスでありふれた物語をもたせるために、新奇なものにみせるために、細部の仕掛けが膨大に投入されているのとは違う。まず何よりもでこぼことした細部の連なりが先にあり、その充実が手応えとして観客に受け止められるうち、それが結果として物語を語ることにもなるのだ。つまり細部が「法」としての物語に支えられて(依存して)はいない。にも関わらず、たんなるマニアックな趣味やバラエティとしての細部の拡散があるだけではなく、ひとつのまとまった物語を(事後的に)形作る。これはたんなる「言い方の違い」ではないと思う。この微妙な違いにこそ(あるいはそこにだけ)、この映画のリアリティがあるのだと感じる。