京橋の南天子画廊で、中村一美・展

●京橋の南天子画廊(http://www2.kb2-unet.ocn.ne.jp/nantenshi/)で、中村一美・展。「存在の鳥」と名付けられたシリーズの作品が展示されていて、文字通り、明らかに「鳥」のような形態が描かれている。画面の中央に近いところに配置された、鳥のクチバシから頭、そして胴体へと繋がるような形態が画面を上下に貫き、その左右に、羽根を思わせ、横へと広がりつつも上から下への動きを感じさせる、弾力のある曲線が配置されているというフォーマットが、どの作品にも共通してみられる。ここでモチーフとなっている鳥は、おそらくスケッチされた実在の鳥ではなく、美術史上の何らかの作品(多分日本か中国の絵画)から引用されたもの、それも鳳凰のようなもの(あるいは「鶴」かも)ではないかと推測される。さらに推測を重ねれば、これらの作品で鳥の形態が(描かれるのではなくあくまで)引用されるのは、鳥の流線型で鋭角的な形態によって画面にダイナミックに動く空間を導入し、さらに、鳥の羽根の形態によって、装飾的な、視覚的な豊かさのようなものをも実現させようという狙いではないかと思われる。中村氏の作品の特徴である、ほんど一挙に視覚が捉えるようなダイナミックに動く空間に加え、それと矛盾するような、装飾的な過剰さを同時に一つの画面になかで実現すること。さらに言えば、これらの作品は、複数の空間が横へと段階的に接続されることで展開され、動いてゆくような(横長の)シリーズとは異なり、「鳥」と名づけられているように、縦(上下)への運動を実現しようとしているのだが、縦への動きは、横への動きとは異なり、ねじりが加えられつつも一挙に舞い上がってゆくようなひとつの動きであって、一見、下へと垂れ下がってゆくような羽根の形態は、重力の存在を意識させつつも、それの反作用として上へと向かう動きを強調しているように見える。これらの作品では、厚塗りの絵の具も過剰に重たくなったりせず、その色彩の効果もあってむしろ軽々と上昇するような感触がある。そのような意味で、最近の中村氏の作品の多くにみられた、絵の具や色彩が過剰にどろどろと重たくなってしまうという傾向からふっきれた、(初期作品から感じられたような)すがすがしい軽やかさが感じられる作品だと思えた。それが、初期の「Y」型の作品と異なるのは、そこに弾力と同時に重力をも感じさせる曲線が、より豊かで自由な感じで導入されていることによって、視覚的な豊かさが加算されているという点だろうと思われる。
ただ、どうしても気になってしまうのが、いまひとつピタッとは「決まって」いない感じがしてしまうところだと思う。失礼な言い方であることを承知であえて言えば、中村氏の作品は、ダイナミックに動いてゆく感じは良いと思うのだが、シビアにピタッと決めるべき部分の精度が今ひとつルーズな感じで流れてしまっていて、それが作品全体の精度を損なわせてしまっているように感じられるのだ。それは作品によって、形態であったり、タッチであったり、色彩であったりするのだが、何故このままで「許せて」しまうのだろう、もう一歩シビアになる必要があるのではないか、という疑問が長時間観ているとどうしても浮上してくる。その感じが、(さらに失礼な言い方になってしまうのだが)これらの作品は実際に観るよりも印刷図版で観た方が良く観えるのではないか、と思わせてしまうのではないだろうか。今回展示されている作品の多くには、画面のどこか一点に濁りのようなものが感じられてしまう作品が多い。「濁り」とは、たんに色彩や絵の具が濁っているということではなくて、全体の空間の流れが滞ってしまう部分がある、というようなことなのだ。それは例えば、空間性と装飾性でもよいのだが、複数の矛盾する要素をひとつの画面上に統合しようとすれば、必ずその矛盾が露呈してしまう部分が画面上に一ヶ所は現れるのは必然なのだけど、それがあからさまに「濁り」や「穴」のようなものとして現れてしまうのはどうかと思うのだ。(中村氏としては、そのような細かいことよりも、全体としてのダイナミックに動く空間性の方が重要だ、ということなのだろうけど。)
南天子画廊の中村一美・展は、7月9日まで。