『銀河ヒッチハイク・ガイド』(2)

●『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテレビ・シリーズのDVDのパート2(第4話から6話分)を観た。このシリーズの面白さは、個々のネタの面白さにあるのでもないし(個々のネタはあまり面白くない)、SF的なネタが「宇宙論的な深読み」を誘うというところにあるのでもなく(宇宙の真理が「42」であるということを深読みしても意味がない)、あくまで、ある種のユーモアの感覚(それは「笑える」ものでは全くないが)、どうしようもなく行き詰まった逃げ場も希望もない状況をぼやきつつも受け入れ、その状況をひょうひょうと生きてゆく感覚にあると思う。この作品に通底している感覚は、私はなんら特別の存在ではなく(私や私を生んだ環境=地球には何の意味もなく)、そして、私の置かれている状況には希望もなく、逃げ場(出口)すらない、というものだろう。(笑いとは一種のカタルシスであり、つまり逃げ場=出口であるとすれば、この作品には「笑い」という逃げ場すらない。)自らが帰るべき環境=地球を失って、地球人として唯二人の生き残りの一人となった主人公にとって、ヒッチハイクで廻る先それぞれの「その場」、つまりその都度の「現在」の状況が全てであり、そしてその現在は全くの「偶然」によって左右されているので、「未来」や「希望」には全然繋がらない。時間の流れはまさに、面白くもない「ネタ」がだらだらとつづいてゆくようなものとしてあるだけだ。(それぞれの「その場」で、主人公が主体的にとれる行動はほとんどない。)主人公の出自である地球は、「銀河ヒッチハイク・ガイド」にはただ「無害」もしくは「ほぼ無害」とのみ記述されているようなどうでもいい場所でしかなく、銀河ハイウェイの建設のためにあっさりと破壊されてしまうような意味しかもっていない。(実は地球は、宇宙の真理を計算するためにつくられたコンピューターであったという「意味」が後に生ずるが、しかし、結局その「問い」とはたんに「9×5」でしかなかったという「オチ」がつく。)何者でもなく、帰るところもなく、行き先ももたない主人公は、その状況を嘆きはしても、決して絶望することもなく、ひょうひょうとして流され、その都度の状況を受け入れつつも、自らのスタイルをかえない。(いつもガウンを着た姿のままだし、どこでも「紅茶」を要求する。)主人公にとっては、自身のスタイルや、ペテルギウス星系の惑星出身だという友人と「コンビ」であることこそが、「意味」や「希望」や「未来」よりも重要である。と言うか、そんなものに特別な「意味」があるわけではないという感覚を持ちつつ、しかしだからこそ「それ」は貴重なもので、「私」には「それ」しかないということでもあるのだ。こういう感覚に触れると、イギリス的な「成熟」というものを感じ、その「成熟」の強さ、貴重さ、そのような「成熟」を育てて来た歴史の厚み、等を感じる。