ポール・トーマス・アンダーソン『マグノリア』

●『ハードエイト』(9/26の日記参照)が、やたらとカッコ良かったので、もう一度確かめてみようと『マグノリア』を観直してみたのだが、やはりこれは全然駄目だと思った。複数のエピソードを細切れに同時進行的に示し、当初バラバラだった断片の関連性が次第に見えてくるようになる、という(一時ものすごく流行った)話法が上手く機能していなくて、個々のエピソード(やその関連の仕方)が薄っぺらにしか思えないのだけど、それは、それぞれのエピソードが「起こる」その基となる「環境」が、作品としてつくり出せていないからではないだろうか。(例えばタランティーノの『パルプフィクション』ならば、まさに薄っぺらな「パルプフィクション」的世界=環境が、映画全体として成立しているから、あの馬鹿げた展開をとりあえずは「納得」することが出来る。その世界=環境それ自体を「納得」出来るかどうかは、また別の話だけど。)さらに、一つ一つの(それ自体としてあまり説得力のない)エピソードを、過剰なくらい細かく分割し、しかも、分割した部分をやたらと引っ張って引き延ばしている映画の中盤部分は、ちょっと悲惨なくらいに上手くいっていないと思う。この部分の「引き延ばし方」は、『巨人の星』などを連想してしまったくらいに安易な演出ではないか。もともと、この映画で描かれる個々のエピソードたちは、良く言えばどれも「同一のテーマ」によってつくられていて(悪く言えば、どれも同じ様な話のバリエーションに過ぎず、何故同じ話ばかりが一本の映画のなかでいくつも重ねて語られなければならないのか分からない)、その「同一のテーマ」が、場所と登場人物をかえただけで、しつこく何度も、しかも安易に引き延ばされた大げさな芝居によって反復されるものだから、観ていてすっかりうんざりしてしまう。有名なラストの「蛙」にしても、アイデアとして面白いと言えば面白いけど、上手く絡み合わないままぶよぶよと膨れてしまったそれぞれのエピソードを断ち切って「終わらせる」ためには、このような強引なやり方しかなかった、ということなのだと思う。この映画の冒頭には「偶然」に関するいくつかのエピソードが語られていて、この映画が奇跡的な「偶然(に見えつつ、それは映画のなかでは決して偶然ではあり得ないのだけど)」にまつわる物語を語ることを予告しているのだが、肝心の物語そのものでは「偶然」は有効に機能していないので、冒頭のエピソードは、ラストの「蛙」を正当化するためのものにしかみえなくなってしまっている。(とは言え、良いシーンもある。例えば、死にそうな病人を看護している看護士の男が、病人の息子へ連絡することを決意して雑誌を注文する直前に、めまぐるしくチャンネルを換えつつぼんやりとテレビを観ているところの佇まいなど。どのシーンも、どの芝居も、物語としての何かしらの「意味」を背負ってしまっているこの映画において、ふっと、空白と言うか、凪ぎが訪れたようなこのシーンの呼吸や、看護士の男の表情などは、たしかに『パンチドランク・ラブ』に繋がるような素晴らしい感触があり、この監督の才能を感じさせる。)
●とは言っても、『ハードエイト』のちょっと決まり過ぎなくらいの「決まった」感じに対して、(上手くはいっていないとしても)『マグノリア』では、その「決まっている」感じを超えるための過剰さのようなものが追求されているし、『マグノリア』の冗長さに対して、『パンチドランク・ラブ』のような「圧縮」が試されていたりするわけで、ポール・トーマス・アンダーソンという人は、常に自分の作品について真面目に考え、努力している人なのだとは思う。