●『ロンリー・ハーツ・キラー』(星野智幸)という小説は、書評を書いた時に3回は読んでいるので、今回で少なくとも4回は読んだことになるのだが、この小説の素晴らしいところは何と言っても、最終章(昇天峠)にあるように思う。非情に厳しく考え抜かれて書かれているこの小説が、しかし、あらゆるものを相対化し、現実を誤摩化すことなくなく見つめて追いつめる(つまり、ここにもあそこにも「罠(反復)」がある、ということを指摘する)、というところで終わってなくて、第3章のポジティブで開放的な感じにまで突き抜けていることが素晴らしいのだと思う。例えば、モクレンと卯月のカップルの「子供」をめぐる議論(「家族」の反復の問題)にしても、「オカミ」の問題にしても、決して、何かしらの「解答(解決)」となるようなものが示されるわけではないのだが、それでも、何か囚われているものからふと解き放たれるような感触(別の方向性)が示されてはいるのだ。これはとても重要なことと思える。
●改めて読み直してみると『千年の愉楽』(中上健次)はなんとも微妙な小説で、中上健次という作家の様々な問題が集約されているようにもみえる。この小説の終わり方(落としどころ、というか、開き方、というか)はあきらかに失敗しているように思うのだけど(そしてそれには80年代という時代が深く刻まれているように思うのだけど)、それはたんに最後の2編が小説として弛緩しているというだけの問題ではなく、ここで方向を間違えたことが、晩年の作品に響いているのではないかと思えるようなものだ。「路地」と書いて「コタン」と仮名をふり、路地の若者とアイヌの若者を交換させるということからみえてくるのはたんなる「構造」であり、つまり、ここにもあそこにも同一の「構造」があることが発見されているだけで、それは例えば『ロンリー・ハーツ・キラー』のモクレンという人物が示している(手垢のついた言い方ではあるが)開かれた「交通」のようなものには繋がらないと思う。