●ナショナリズムとはおそらく作法の問題で...(『在日ヲロシヤ人の悲

ナショナリズムとはおそらく作法の問題で、作法とは無意識に働くものだろう。例えば平山瑞穂は『マイノリティー・リポート』に出てくる「ヤカモト」という名前について書いている(http://d.hatena.ne.jp/hirayama_mizuho/20051123)。日本で育った人ならば、「ヤカモト」という名前がその語感からおそらく日本人(日系人)の名前を意味しているのだろうこと、しかし、実際にはそのような名前はあったとしてもかなり稀なものであることはすぐに分かる。平山氏は、その理由を分析しているが、そのような分析抜きでも感覚的に「すぐに分かる」のは、日本人の名前を構成している秩序を(その作法として)知っているからであり、しかしその作法が作動していることを意識しているわけではない。作法は、「ヤカモト」という異質なもの(中途半端に「作法」にのっとっているもの)が現れたときにのみ、意識される。無意識のうちに作動するからこそ「作法」は強力なものなのだ。作法の裏側には切り離しがたく「感情」が貼り付いているので(だから「作法」は「言語ゲーム」ではない)、作法が破られると、人は、何か大切なものがけがされたように感じてしまう。それが「ヤカモト」程度のものであれば、多少なりとも知的な余裕がある人ならば、今まさに自分のなかで「作法が相対化されている」瞬間を楽しむことが出来る。言ってみれば「人」は、無数の作法の交錯した場としてあり、「作法」はその人のアイデンティティと不可分である。だから、その人を支えるアイデンティティの中核に位置するような重要な「作法」が破られると、その人はそれを「堪え難い」ことと感じる。ここで重要なのは、問題がその人にとっての実際上の利害にあるのではなく、「感情」という次元で発生すること、そして、その感情が貼り付いている「作法」を、必ずしも人は意識的に捉えることが出来るわけではない、ということだ。作法が作動し、そこに感情が貼り付いていれば(つまり、その作法によって「私」が支えられているのであれば)、その作法が、真性に伝統や理屈に基づいたものであるか、いい加減に捏造されたチープなものでしかないか、ということは問題にならない。(だから、「正しいこと」では人は動かない。)しかしそれは、無意識のうちに作動する、いわば私に「埋め込まれた」ものなので、「あえて」選択することは出来ない。だから人は、開かれていたり、知的であったり、国際的であったりするくらいでは、「作法」から決して自由にはなれない。(つまり「意識」的にはどうすることもできない。)おそらく、「孤独」であること(によって、あらゆる「作法」からこぼれ落ち、ズレていること)によってしか、辛うじて「作法」を相対化することは出来ない。(おそらく「閉じている」ことによってしか「開かれ」ないものがある。例えば、美術批評家のマイケル・フリードが「モダニズムの作品」について言っていることは、そういうことだ。)「左翼」であるということはおそらく、あらゆる「作法」に対して常に相対的であろうとする不可能な意思を持ち続ける、ということであって、それは決して「実り豊か」なことではないし、ひたすら「消耗」する生を生きるということでもあろう。
●上記のことは、『在日ヲロシヤ人の悲劇』(星野智幸)を読みながら思ったことだ。この小説で最も魅力的な人物は、一人右翼を実践する息子だろう。対して、左翼である娘は、ひたすら消耗してゆき、多くの人たちに「少しずつ殺され」てゆくだけだ。そして「父」のような情けない「息子」しか残せない。(この小説で右翼である息子は「母の息子」であり、左翼である娘は「父の娘」である。)星野氏の「意図」がどのようなものであれ、この事実は、現在の日本を生きるリアリティとかなり「重なって」しまう。この小説には、『ロンリー・ハーツ・キラー』のモクレンや卯月のような魅力的な人物が登場しないし、オカミの制度からだらしなく「降りて」しまうような聡明な「新オカミ」のような人物も出てこない。あるいは『毒身温泉』の、ワタナベとシキシマとの間にある(いろは、と、モクレンとの間にもあるだろう)、(「作法」とは別の原理によって作動していると思われる)「長期に渡る安定した関係」としての「友情」のようなものもみられない。(ここで言う「友情」とは、エロティックなものに媒介される必要のない関係、というくらいの意味だろうか。)そのことがこの小説を「痩せた」ものにしていると思うのだが、「痩せ」ていることによって、現在の日本の「嫌なリアリティ」と共振しているように感じる。