●正月は実家に帰っていた。ぼくの実家は神奈川県の海沿いにある平塚というところなのだが、海からそれほど近いわけではなく、家のすぐ近くの川に沿って下流の方へ歩くと、だいたい4、50分で海に着くというくらいの位置にある。で、実家に帰って時間があると、たいがい川沿いを下って海まで散歩する。ゆるやかに蛇行し、下流にいくにしたがって徐々に川幅が広くなり、流れがゆっくりになってゆく川と河原の表情の変化の具合は、めまぐるしくもなければ、単調でもなく、のんびりと散歩するのにちょうど良い。注意深く景色を見ていても飽きることがないし、ぼーっと考えごとをしていていつの間にか辺りの表情が変わっていることに気付くのも面白い。クマザサが密生しているような河原が、徐々に広く平坦になり、ススキの生える広がりとなる。橋や線路の下をくぐり抜ける度に、風景の表情がかわる。河口に近づくとシラサギやムクドリが多くなるのだけど、いよいよ海との境目あたりになると、何故かカラスがいきなり増える。海へ至る前の最後の橋をくぐる手前には、川の反対側に大きな駐車場のスペースが広がっていて、その広がりが海岸の広がりを予告しているように感じられる。最後の橋の下あたりではもうほとんど水が流れてなくて、たぷんたぷんと小さな波が岸に打ちつけ、風で軽くさざ波だっているだけの水面が、水の量感を感じさせている。しかし、川や河原の豊かな表情の変化の面白さも、海岸へ着いてしまうと、その圧倒的な広がりに呑み込まれ、意識の前面から一気に引いていってしまうのだった。実家は平塚なのだが、川に沿って行くと大磯の海岸に出ることになる。元日の昼過ぎの海岸は、天気が悪く曇っていたせいか、人がほとんど見当たらなかった。見渡せる限りのずっと先までで、釣りをしている人が一人、カップルが一組、そしてほんの豆粒くらいにしか見えないくらい遠くに、サーファーのグループが2、3人というところだろうか。
●重たく曇った空から、雲を通して滲み出てくるような光に照らし出された海面は、その光を反射して、(空も砂浜も含めて)モノクロームというか、銀色の鈍い光を放っているような色で、風がほとんどないせいか、波が高くたたず、ただ寄せては返しているだけの平坦な水面がずっと先までひろがっていた。まるで海ではないかのような静けさでメタリックに輝いている海に、見渡す限り人がほとんどいない海岸線という様子は、いままでにあまり見た事がないちょっと凄い光景だった。砂浜に足をとられながら波打ち際ちかくまで行き、波打ち際に沿って、大磯から二宮の方向へと歩きだす。(左側が海で右側が砂浜になる。)海の表情のあまりの凄さに、ずっと海の方(左側)を向いて歩いているので、しばらくすると首がへんな風に凝ってくる。なので少し立ち止まってみる。立ち止まってみると、足下に小石が転がっていることに気付く。視界全体がメタリックなモノクロームで覆われているなか、小石のエメラルドグリーンやクロームグリーン、セルリアンブルー、クリームイエロー、赤紫がかった色(どれも極めてグレーに近いものなのだが)が、すごく色として生々しく感じられた。いままでずっと遠くまで伸び、広がっていた視線が、急に足下の小さな領域に限定的に注がれ、色の異なる石を選んで、いくつか拾った。拾ってから、掌に載せて並べ、改めて見ると、小石の色の諧調の思いのほかの豊かさに驚いて、しばらく突っ立って見とれていた。色だけでなく、質量が密で表面がツルツルしているものから、疎で、ゴツゴツしているものまで、質感の諧調も様々なのだった。それから、海よりも足下を見ながら歩くようになり、ジャケットの左右のポケットは小石でいっぱいになってしまうのだった。波打ち際に沿って、一時間くらいずっと海岸を歩いているうちに、徐々に雲が薄れて日射しが強まり、海の表面にほんのりと緑や紫が浮き出てきた。
●今、この日記を書いている目の前に、その時に拾った石がある。思ったのだが、絵画を描く時、この石の色彩を再現しようとしても、あるいは、メタリックに輝く海岸の視覚的イメージを再現しようとしても、多分駄目(面白くない)なのだ。つまり、絵画は自然そのもの、世界そのものではないし、自然や世界のミメーシスでもおそらくない。そうではなくて、海岸を歩いている時に小石の色彩を発見した時の、その感覚と深いところで響き合うような感覚を掴む(構築する)のでなくては面白くない。そしてそのためには、1枚の絵画のフレームのなかに、その日の散歩の過程全てを通して得られた感覚と同等のものが込められる必要がある。1枚のフレームが、ひとつの環境(地)として「散歩全体」と同等であり得ることで、その散歩の途中の一時の感覚(図)をたちあげることが出来る、のではないだろうか。