(昨日からのつづき)
●元日の散歩は、昨日書いた海岸あたりだけでは終わらず、ポケットに小石を詰め込んだ重たいジャケットをひっかけつつ、延々5時間くらい歩きどおしだった。大磯にはぼくが通っていた高校があり、その高校は海岸から防波堤と一本の道路を挟んですぐのところにあって、三階、四階の教室の窓からは海が見えた。ぼくの十代の記憶は主に中学の時と浪人の時のもので、高校の三年間はほとんど空白のように希薄だ。だいたい、教室の窓から海が見えるような学校で学生が勉強などするはずもなく、その勉強しない学生たちのなかでもぼくは特に勉強しなかったので成績も悲惨だった。で、勉強のほかに特に何かしていたかといえばそんなこともなく、ただ三年間ぼんやり海を眺めていただけのように思う。ただ、映画は何本がつくっていて、高校三年の夏休み頃になってもまだ新作をつくるつもりでいて、しかしさすがにその頃になると他の学生は大学受験を控えているので誰もつき合ってくれなくて(そんな「空気」ではなくなっていて)、仕方なく諦めた。その時期になってもぼくは将来について何も考えていなくて、なんとなく美大にでも行きたいと思ってはいても、具体的にどうすれば美大に入れるのかさえ全くわかっていなかったのだった。
高校時代の数少ない印象的な記憶がある。大磯とか平塚とかは気候が温暖で、大雪が降ることはあまりないのだが、高校二年の時に記録的な大雪になった。見渡す限りの砂浜が白い雪で覆われ、空から落ちて来る雪が次々と海面に溶けてゆく、という光景を初めて見た。この日は確か雪のために授業は午前中で切り上げられた。それでも皆、大雪に興奮していたせいか、クラスのほとんどの学生がはしゃいで、海岸に出て雪合戦などをはじめたのだった。(こういう時に、この年齢に特有の気味の悪い「連帯感」のようなものが作動する。)そのうち、誰がはじめたというわけではなく、やたらと巨大な「かまくら」をつくりはじめたのだった。ぼくはその「かまくら」づくりにやけに熱中してしまったのだが、最初は(女の子なんかも混じって)大勢で皆はしゃぎながらつくっていたのに、だんだんと一人帰り、二人帰りしてゆき、あたりはどんどん暗く、寒さも増してきて、「かまくら」が完成した頃にはすっかり夜遅くなっていて、残っていたのは(ぼくも含めて)冴えない男子三人だけだった。やっとのことで完成した「かまくら」のなかに入っても、暗いし、寒いし、からだは冷え切っているし、冴えない男子三人で別に話すこともないし(つくっている最中はほとんど「同志」のような感じだったのに)で、充実感どころかシラーッとした空気で、何か恥ずかしい事をしてしまったところから逃げ去るかのようにして、そそくさと帰っていったのだった。
しかし、このようなことを、海岸を散歩しながら思い出していたわけでは全くない。これらの「想い出話」は、海岸の散歩の後数日経って、この日記を書こうとしている時に思い出したもので、実際に海岸を歩いている時の、「海岸」という環境から与えられる圧倒的な感覚は、ぼく個人の思い出などよりもずっと強くて、歩いている時は、ただただ、それをひたすら受け止めていたのだった。
●散歩の最中に、過去というか記憶の回帰に襲われたのは、それからしばらく経ってからのことだった。海岸の辺りを歩いた後、今度は大磯の街中を抜けて、山側にある坂の多い高級住宅地の一帯を歩いて(大磯の町はぼくが高校に通っていた二十年前とほとんど変わらないのだけど、気になったのは、この古くからある高級住宅地に空き屋や売り地が目立ったことと、やたらと「不審者排除」のポスターが貼ってあったことだった)、さすがに歩き疲れて実家へと帰る方向に向かい、行きとは違う道を通って帰っている途中で、ふとした気まぐれから、帰路となる道から一本はずれた道に入っていった。しばらくその道を歩いていると、いきなり、そして衝撃的なくらい鮮明な映像で、遠い過去のある出来事が蘇ったのだった。つまりその場所は、その出来事が起きた場所なのだった。「その出来事」と書くと、何か特別な事件があったみたいだけど、出来事自体は大したものではなく、小学生の頃の、ちょっとした「甘酸っぱい想い出」に過ぎないのだが、衝撃的だったのは、その記憶の回帰の「唐突」さと、その記憶の像あまりの「鮮明さ」の方なのだった。その出来事自体は、小学校時代の記憶をいろどるいくつかのエピソードの一つで、その記憶もあくまで「お話」のようにおぼろげにあるだけだったし、そしてここ十年か二十年くらいは、そのことを思い出したこともないくらい事柄なのだが、その記憶が、たまたま「その場所」を通りかかったことで(その場所を通ったのは、その出来事があって以来おそらく初めてで、だから三十年ぶりくらいのはずなのだが)襲ってきたわけなのだった。
記憶に襲われるという言い方がぴったりするくらいに、唐突に後ろから殴られたみたいに(実際に殴られたようなダメージを身体に感じた)、ある記憶の像が現れて、実際に眼にしている光景と重なったのだった。その像が異様なまでに鮮明だったのだが、それだけでもない。その出来事は、小学三年の時の同じクラスだった女の子とのエピソードなのだけど、その出来事の映像と同時に、学校からその場所まで女の子と一緒に歩いた(正確には女の子にもぼくにも連れが一人づついたのだけど)道順までもが、全てはっきりとクリアに思い出せたのだった。付け加えるが、その場所は女の子の家の近くで、その一帯はぼくの実家からそう遠くはない場所ではあるが、ぼくの生活圏から微妙に外れていて、だから、その場所もその道のりも、その出来事があった時以来(ちょっと近くをかすめたくらいはあったとしても)一度も行ったことも通ったこともないはずなのだ。にも関わらず、あまりにくっきりと思い出すので、ぼくはちょっと自分の頭がヘンになったのではないかと思ったくらいだ。試しに、その場所からその道順を逆に辿ってみたのだけど、(景色は全く変わってしまっていても、「道」自体はそのままなので)一瞬も躊躇することなく辿ることが出来てしまうのだった。何か気持ち悪かったので途中まででやめたけど。(映像として思い出されたのは、鮮明ではあっても、その出来事のいくつかの断片的なシーンだけで、「道順」は、映像としてではなく、何といったらいいか良く分からないが、もっと空間的な感覚として思い出されたのだった。)