スピルバーグ『宇宙戦争』

スピルバーグの『宇宙戦争』をDVDで。軍隊は出てきても、軍隊を指揮する人が出てこないということにこの映画の特徴はあらわれていて、つまり登場人物の目の前で起こっているいることだけが全てで、それが(我々が「知っている」と思っている)世界の秩序のなかで位置づけられたり、因果関係が構成されて立体化したりしない。一つ一つのシーンは、サスペンス演出のお手本というか名場面集みたいになっているけど、それらを束ねたり秩序だてたりするものがない。このような傾向は、もともとスピルバーグにはあるのだが、それがより徹底された感じだ。多少なりとも「全体」を説明しているのは、途中で出会ったジャーナリストが取材したビデオ映像を示しつつ、この出来事が世界中で起こっていることを告げる場面くらいだろうか。見通しがまったくたたないなかで、圧倒的な暴力にさらされて、ただひたすらそれに受動的に対する(つまり「逃げる」)しかないという世界は、くり返すがスピルバーグの映画の傾向としてもともとあるものだが、それがここまで徹底される理由は何なのだろうか。ごく素朴な感想としては、この映画はスピルバーグアメリカへの怒りとしてあり、つまり、アメリカ本土を戦場にしてやる?という悪意によって出来たもののようにも思える。9・11は確かに悲惨な出来事だったが、それはいわばビルが一つ壊れたということであって、生活の基盤の全てが崩れたわけではない。それを理由に何をしてもいいことにはならない。軍事力で圧倒的に勝っている奴らが、いきなり空爆とかしてきたら、それを受ける側は一体どんな状況になるのか、ちょっとは想像してみろ、と。そのなかをなんとか生き延びたとしても、お前たちの子供は、その破壊と殺戮の場面をしっかりと「眼に焼き付けて」しまうのだ、と。お前らにはあまりにも想像力がないから、俺が具体化してみせてやる、と。
この映画は父親が「逃げ」て、娘が「見る」映画だと言える。逃げるといっても、どこに逃げれば良いという見通しは全くなく、ただ、いま、ここで殺されてしまうのを回避する、というだけだ。(人物たちは、今までの生活のなかで築いてきた世界との関係性の基盤、このように働きかければ、このような結果が予想される、というものが根本的に崩壊してしまった時間を生きることが強いられている。)ここで、ほとんど受け入れがたい状況に襲われ、そこから逃れ得るという希望も奪われた状態でもなお、父親が正気を保ちつづけることが出来るのは、娘を守るという「目的」が与えられているからだろう。(しかし本当に、この「悪夢」に出口がないのだとしたら、この「正気」の持続は、ただ苦しみを持続させるだけなのだが。ただ、あえて穿った見方をするならば、日常において家族から軽蔑されている父親にとって、このような状況=非常時は「望ましい」ものですらある可能性もあるのだが。)そして、娘は、父親に保護されることによって、(常に的確に状況を読み取り、行動しなければならない父よりも、判断や行動による荷重がある程度軽減されているからこそ)より明確に、鮮明に、この惨状を細部にわたって「見る」ことが強いられてしまう。父親は娘に、何度も「見るな」と叫び、目隠しさえもするのだが、娘の、眼を見開いたまま凝固してしまったような表情(楳図かずおのマンガを思い出す)と、照明によって常に異様な輝きが強調されているその瞳が、この光景が彼女のなかにしっかりと刻み付けられてしまっていることを示している。極端な言い方をすれば、この映画そのものが、圧倒的に悲惨な光景を眼に焼き付けてしまった娘の脳の内部で、外傷的な記憶が時間を越えて何度もフラッシュバックしてしまっている、その様を形象化したものと言うことさえ出来るのではないだろうか。この映画の、徹底して外部を欠いた閉鎖性、そして、現実との対応関係から切り離されて、恐怖が純粋化されて増幅してゆくような悪夢的なリアリティは、その点から説明されるかも知れない。父親は、娘を無事に母親や兄のもとへ届けて、一仕事終えたという満足感を得ることが出来るかもしれないが、娘の地獄は、ここから始まるのかも知れないのだ。