テレビでやっていたチェルフィッチュの『目的地』(1)

●テレビでやっていたチェルフィッチュの『目的地』は凄く面白かった。途中で何度か泣きそうになるくらい感情が高揚した。ただ、テレビで(つまり映像化されたものとして)観るのではよく分からないけど、実際にどうなのかすごく気になる点は、「観客に向かって直接語りかける」ような語りの形式が、観客としてその場にいる場合どう感じられるのか、ということだ。これは、小説版『三月の5日間』と戯曲『三月の5日間』とを比べた時(05/12/05の日記参照のこと)にも気になっていたことで、戯曲と小説との大きな違いは、戯曲では観客(読者)に語りかける(観客と直接関係するかのように「語られる」)ような形式なのに対し、小説では三人称のナレーターが設定されていて、虚構を成立させる「約束事」みたいなものが前提とされていた点だ。(このことによって小説版があまりに「小説」っぽくなりすぎていると感じた。つまり、戯曲の面白さは、その「直接的」に観客に関係しようとする語り口によって、その多くの部分が支えられている。)この違いは、文章として「読む」時よりも、俳優によって実際に喋られ、上演される時の方が決定的な違いとしてあらわれるのではないか。こういう点が気になってしまうのはマイケル・フリードの読者であるからで、フリードの言う否定的な意味での「演劇性」とはまさに、観客に「向かって(観客の存在をあらかじめ前提として)」、観客への「効果」として作品が組み立てられることで、対してフリードの言うモダニズムの作品は、作品が一つの構造物として閉じてそれ自身として存在していて、それが観者による積極的(能動的)な関与(観ようとし、読もうとすること)によってはじめて開かれる、ということになる。なぜ演劇的な、観客と直接対面するような形式が駄目かと言えば、作品の構造があらかじめ(事前に想定される)観客との関係性を組み込んでしまっていて、それに規定されてしまうからで、対して閉じられた作品と観者との関係は事後的にのみ成立し、未だ決定されておらず、その関係は未来に対して開かれている、と。勿論、ぼくはこのようなフリードの説を教条的に信仰しているわけではないから(実際、多くの「閉じられた作品」もまた、虚構を成立させるための前提=お約束に従ってしまっているわけだし)、観客に向かって直接関係するような語りだから駄目だなどとと言いたいわけではない。ただ、それでも、作品(の「語り」)とその観者との関係はどうしても気になってしまう、ということだ。テレビで、映像化されたものとして舞台を観るとき、俳優は、観客席に向かって喋ってはいるけど、カメラに直接語りかけているわけではないから、テレビの観客と俳優との間には直接的な関係性は生じにくく、テレビの観客は必然的に舞台(と観客との関係)を「外から」眺めることになる。(フリードは、「映画」はそのメディウムの特性からして、あらかじめ「演劇性」から遠いところにある、ということを書いてもいる。)だからテレビで観たのでは語りと観客との関係性がどういうものなのかは分かりにくいのだけど、ただ『目的地』では、言葉の語りとしては観客に向けられているように組織されていたとしても、俳優の動きというか仕種や所作は、むしろ直接的な関係を拒否するというか、それとは無関係に(積極的に「関係」とは「切り離され」た次元で、つまり抽象的に)組織されているように思えたし、また、字幕の使用によって、俳優による語りとは別の次元での言葉が使われていたりして、舞台全体としてのあり様は、単純に「直接的な語り(関係性)」によって成立しているとは言えないような複雑なものになっているとは思った。