テレビでやっていたチェルフィッチュの『目的地』(2)

●昨日の日記でチェルフィッチュの『目的地』について、俳優の発する言葉が観客へ直接向けられている(観客に対して直接的に関係する)というようなことを書いたけど、そのような決めつけはちょっと単純(乱暴)すぎたかもしれないという気もする。「〜についてやります」みたいな言い方は、確かに、明らかに観客に向けて言われているように思えるのだが、その後、くり返しやノイズの多い言葉が延々と語られてゆくと、その言葉はどんどん行き先というか、宛先が不明なものになってゆき、それ自身として自己増殖してゆくかのようにも感じられるからだ。それは、延々と続く独白のようでもあり、どこかで録音された言葉を適当にコラージュしたり反復的に再生しているだけのようでもある。言葉と、仕種や所作との関係も、はじめ(語り出し)では、必然的な繋がりがある(つまり、こういう状況でこういう話をする時、人はしばしばこういう仕種をするというような普通にリアルな関係がある)のだけど、言葉が言葉として増殖してゆくように、仕種も仕種それ自身として増殖してゆき、言葉と仕種とはだんだん離れ、関係が希薄になってゆくように思えた。つまり、観客に対する直接的な語りかけや、言葉と仕種(と、あと人物)との必然的な繋がりは、最初のきっかけというか、一つのモチーフのようにしてあり、しかしその後、それぞれが勝手に(それぞれを律する内的な律動に従って)、異なる方向へと増殖し展開してゆく感じ、と言えばよいのだろうか。ただ、言葉と仕種(と、人物)とは完全に分離することはなく、どこかに微かな繋がりというか、重なりのようなものが残されているようにみえて、このあたりの微妙な感覚が面白いと思う。(つまり、方法を「方法のみ」でとりだして展開してゆくのではなく、その下に最初のモチーフの力が常に働いている。)ただ、それでも、語りがはじめられる最初のきっかけとして、そこに(目の前に)実際にいる「誰か」に語りかける、という関係性が必要であることにはかわりなく、その最初にある関係性は、意外と先の方まで尾を引くのではないかとも思う。