●あたらしく書く作家論のために、その作家の小説を改めて読み直すことをはじめた。この作家の本は余白が多いので、絵が描き込みやすい。線的に流れる文章で表現されたものを、一望できる絵や図という形に置き換えて理解するのは邪道ではないかと、ぼくも思う。でもこれは、ゆっくり、じっくりと読むための技法なのだ。絵を描くためには、何度かそこを読み返す必要があるし、どんな角度から、どんな風に描くのが適当なのかを考えるし、何より、絵を描いている間は次のページに進めない(本のそのページに直接描き込むので)。描いているその間の時間、ひとつの場面、ひとつの文章に留まっていることが出来る。絵を描くことそのものが目的なのではなく、そのようにして、同じ場面を何度も反芻し、反芻を繰り返しながらゆっくりと進んでゆき、その小説の内部に長い時間留まっていることこそが重要なのだ。それと、手を動かしながら読む--考える、ということも、ぼくには重要であるようだ。
そうやって読んでいくと、面白い小説とそうでない小説、密度のある文章とそうでない文章が、いかに違うのかと思い知らされる。密度があるというのは、濃密な描写とか、鮮烈なイメージの連鎖とか、そういうことではなくて、ゆっくり読んでも面白いということだと思う。それは多分、運動の複雑さとか、紋切り型からの遠さとか、その文が暗黙の内に含みもっているもののポテンシャルの高さとか、そういうことではないだろうか。体感速度のはやい文章は、ゆっくり読んでも、というか、ゆっくりと読んだ時こそ「はやい」ように感じる。それは、物語内容の移行のスピードのことではない。ゆっくりと、何度も読んでいるのに、イメージの移行の瞬間が掴めない、というような感じ。そして、そのイメージの移行のパターンが単調ではない、という感じ。
●昨日のレクチャーでは、以前「新潮」の付録についていた小林秀雄の講演の録音を聞いてもらった。ベルグソンの講演の話を小林秀雄がしている。ある婦人が、夫が戦死する夢をみる。後から、その夫は実際に、婦人が夢をみていたのと同じ時間に、同じ状況で亡くなっていたことが知れた。その話に対し、あるフランスの高名な医者は言う。誰でもが近親者の死の夢を、何度もみるはずだ。そしてその夢は、ほとんどの場合、現実とは食い違う。しかし、膨大な人数の人たちがみる膨大な夢のなかには、偶然に現実と重なってしまうことも稀にはあり得る。つまり、外れた夢に関しては当然だから誰も問題にしないが、たまたま当たった夢だけを人は取りあげてさわぐのだ、と。それに対しベルグソンは反論する。それは問題の立て方が間違っている、と。この話で重要なのは、当たったか外れたかということではない。婦人が、夫の戦死する夢を、あまりにも生々しく、リアルな感触で経験したということが問題なのだ。私が「痛い」と感じるということに、主観も客観もない。ただ、「痛い」という直接的経験があるだけだ、と。同様に、婦人は、夢という形で、そのような経験をしたのだ、と。
このような話を、小林秀雄は「ベルグソンの講演」の本で読んだ話としてする。しかも、その本を正確に引用するのではなく、読んで憶えている「ネタ」のような話としてする(ある婦人、ある学会、フランスの高名ななんとかいう医者等)。さらにそもそも、そのオリジナルであるベルクソンからして、その婦人にその話を直接聞いたのかどうかあやしい。別の人から「ひとつのエピソード」として聞いただけかもしれない。もし、実際にその婦人から聞いたのだとしても、それはベルグソン自身の経験ではない。もっと言えば、その婦人でさえ、実際に夢見みた時と、それを語り直した時とでは経験の質は異なるはずだ。さらに、その、又聞きの又聞きの又聞きの又聞きのような話を、既に亡くなってしまっている小林秀雄が残した録音を再生するという形で(イタコによる語りのような形で)、今、我々は聞いている。主観でも客観でもない、外的な事実に保証されない「経験」の直接性の話は、こんなにも間接性に間接性を重ねた、遠い話として聞く時にこそ、リアルに感じられるという逆説。つまり、又聞きの又聞きの又聞きのような「遠さ(繰り返される語り直し)」によってはじめて、「経験」の直接性の話は、具体的、外的条件から切り離された「近さ」を獲得することが可能になる。そしてその「遠さ(による近さ)」の感触こそが、「語り」のリアリティと関係があるのではないか(レクチャーではその「語りの間接性」の超複雑な実践として、「三月の5日間」を、DVDと戯曲の両方を付き合わせながら、かなり詳細に分析したつもり)。
にもかかわらず小林秀雄は、「感想」の最初の「おっかさんという蛍」の話では、それを直接的に、「童話的経験」としてしか語れなかった。それは、(無茶苦茶に鋭い人ではあっても)小林秀雄には小説家としての才能がなかったということではないだろうか。