新高円寺駅の近くにあるアサビ(阿佐ヶ谷美術専門学校)に午前十時半前に着くには、部屋を九時前には出る必要があり、だとすると、遅くとも八時には起きなくてはならない。その時間にちゃんと起きれるだろうか、なんか、目が覚めたら十時とかになってそう、というプレッシャーで寝付かれず、朝方一時間くらいうとうとしただけで、しかも、その浅い眠りのなかで、何度もつづけて激しく人から責め立てられる夢をみて、あげく、左の股を、でかい裁ち切りハサミでぐさっと奥深くまで刺される夢をみて、その、鋭い刃物で切るのでははない、切れ味の鈍い金属を肉のなかに強引に挿入された時の脳にキンキンくるような痛みの感触が目覚めた後にも生々しく残っているという、体力的にも精神的にも決して良くはない状態で、レクチャーをすることになった(今、これを書いている時にでも、「ここ」を刺されたという場所を指差せる)。しかしその話をネタに出来る程度のずうずうしさはあったようだ。去年、同じアサビでレクチャーをした時には、丸いテーブルに十人ちょっとくらいの人が囲んで座っているという形だったので、そいういう感じをイメージして行ったのだが、着いてみると普通の教室で、人数も去年より多かったので少し戸惑った。画集を机の上に広げて、直接指で示して説明するような形を考えていたのだが、それは無理なので急遽OHPを用意してもらった。持って行く本を間違えてしまって、ブライス・マーデンの作品を見せることが出来なかった。二時間つづけて一人で喋っていると、途中で何度か、今、自分が話していることが一体どこへ向かっているのか自分でもわからなくなってしまう瞬間がある。たぶん、そんなに先へ急いで進もうとしなくても、もっと、途中で沈黙したり、考え込んだりする時間があってもいいのだと思う。あるいは、話し言葉なのだから、繰り返しや言い直しが多くても別にいいのだと思う。聞いている方だって、理解には時間が必要だったりするはずなのだから。でも一人だと、なかなかそこまでの余裕がない。
帰って、倒れるように眠る。また中途半端な時間に寝てしまって、睡眠のサイクルが…。
●夕方に目を覚まして、手持ち無沙汰で、ぼーっとしてしまう。緊張することや、何か大変なこと、忙しい一時期などが一段落した後にやってくる、安心感というよりも虚脱感のようなもののとりとめのなさに「耐える」ことが、年齢とともにだんだん厳しくなってくる気がする。それは、悲しい出来事とともにやってくる逃れ難い「胸の痛み」のような感触に似ている。この「とりとめのなさ」に直面しないように、おそらく人はつい忙しくスケジュールを埋めてしまう。あるいは誰かに会いに行く。旅行に行く。あるいはアルコールを口にする。それはとても健康的なことだ。ぼくにだって、すぐにとりかかってもよい「するべきこと」が、いくつかはある。でも、少なくとも今日いっぱいくらいは、この「とりとめのなさ」のなかに留まるべきだと思う(へんな時間に寝てしまったので、きっと朝方まで眠れないし)。なにもすべきことがなく、なにも手に着かず、ふわふわ浮ついていて、にもかかわらずいてもたってもいられない感じで、居場所がなく、てがかりもなく、手持ち無沙汰で、そわそわして、時間がなかなか進まず、強く孤独を感じるような、ある時間の(流れというより)広がりに直面し、そこに留まり、それに「耐える」こと。それこそが、おそらくぼくにとって最もナマな「生きている時間」感触だ。(またーっ、ちょっと緊張した講義が終ってほっとしてぼーっとしたくらいのことで、すぐそんな大袈裟なことを言う!。下手をすると、ちょっと気を緩めると、それはいとも簡単に最も安易な「感傷」に変質するぞ!。)
●科学的な思考において、理解するとは分節することであると同時に梱包することでもあり、支配することでもあるように思われる。一方で科学は、分節的記述をより精緻にし、より包括的に組織することを通じて世界そのものに近付こうとする純粋な展開であり、それは最終的には世界そのものへと返されるしかないだろう。しかし同時に、もう一方で、現実的には、その分節的記述を元にした応用可能性によって、対象を操作可能にし、操作することで対象を自らの下位に置き、支配しようとする。それは知的な操作主体が対象に対して優位に立つということで、その時、知的な探求心とはそのまま、自らの位置を上位に置き、相手を跪かせたいという邪悪な欲望と不可分となるだろう。より多く知っている者が、より少なくしか知らない者(知られてしまっている者)を手段とし、支配する。
しかし、芸術作品の理解においては、理解しようとすることは決して相手に対して優位にたとうとすることではない。セザンヌを理解するということは、セザンヌに跪かせ、セザンヌを支配し、セザンヌを見下し、セザンヌを説明し、セザンヌを応用可能、記述可能にすることではない。セザンヌを理解するとは、セザンヌを見上げ、セザンヌの前に跪き、セザンヌに感嘆し、その凄さに、その魂に触れる、ということだ。セザンヌへの批評に意味があるとすれば、セザンヌの欠点を指摘することではなく、セザンヌの偉大さに触れるということにのみある。勿論、理解することは妄信することではないだろう。はじめからそこにないものを、あたかもあるかのように持ち上げてみせても、何の意味もないばかりか、それは作品や作家への侮辱でしかないだろう。はじめから、見上げるべきもの、賞賛すべきなにものかを持たない作品や作家について、わざわざ取りあげて「批判的」に語ることに、一体どのような意味があるのだろうか(本来「批判」とは、ダメ出しをするというような意味ではないはずだ、褒める=なれ合い、ダメ出しやバトル=ガチ、みないな、少年ジャンプ並みのバカげた感覚は信じられない)。
あらかじめ用意されている評価する主体、評価するための基準があり、それによって作品を56点とか95点とかいって評価するというのは、先生が生徒に対して行う評価であり、それは、作品よりも「評価基準」の方が偉いということで、そんな上から目線の評価が可能な作品など、とるに足らないに決まっている。良い作品とは、少なくともそれを受け取る「私」よりは偉大な作品のことであり、それは必然的に「私」の位置やあり様を動揺させ、移動させ、変質させる力をもつものであるから、そもそも良い作品に対しては事前の評価基準など役に立たない。「評価する」などいとう、自らの位置を安全地帯に置いたような言葉に意味などない。良い作品は、人を驚かせたり、シビれさせたり、興奮させたり、混乱させたり、戸惑わせたり、狂わせたりする。だから、作品を理解するということは、より良く驚き、より良くシビれ、より良く興奮し、より良く混乱し、より良く戸惑い、より良く狂うことが出来た、ということであるはずだ。
ある作品を、いまひとつうまく理解できないと感じる時、それはだから、より良く驚き、より良くシビれることが出来ていないのではないか、という感触をもつ、ということだ。はじめから、下らない、取るに足らない作品だと思っているのであれば、それに対して「うまく理解できていない」と感じることはないと思う。そんなものに対しては、たんに無関心でいればよい。もっと上手くすれば、もっと良く驚き、もっと良くシビれ、もっと良く戸惑うことが出来そうだという予感のようなものがその作品にあるにも拘らず、どうもそこに届いていないのではないかと感じる時、「うまく理解できていない」というもどかしさが生じる。勿論、人にはそれぞれ傾向や性質や限界や体調があり、ある一人の人物が、あらゆる作品に対して開かれているということは、事実上あり得ない。だいいち、そんな必要もないだろう。しかしそれでも、そこに、ほんのすこしでもポジティブなもののにおいや予感が感じ取れていて、もしそれに、上手いことやりさえすれば触れられそうな感じがあるのならば、なんとかそこに届きたいと努力するのではないだろうか。対象が何であるにしろ、何かをポジティブに語る人が魅力的なのは、そこに導いてくれる手がかりを与えてくれるかもしれないと感じられるからだと思う。
何かを分節し、分析しようとする時、その分析が、対象を理解することで支配しようとするものであってしまうことの危険に対しては、常に敏感である必要がある。そのつもりはなくても、分析装置が起動しはじめると自動的に、理解=支配への傾向に傾いてしまいがちだ。そしてそれは、ある暗い喜びを伴いもするので、一層厄介だ。理解=支配という分析装置は、一見、いかにも「理解出来た」という満足感を与えもする。しかしそれはほとんど「征服した」と同義で、その時、作品にとって、あるいは人間にとって、最も重要なものを理解し損なっている。