小島信夫『女流』

●「残光」(「新潮」2月号)を読んだいきおいで、つづけて『女流』を読んで、小島信夫を面白く読むコツというか、小島信夫という作家の面白さの一端が少しだけ掴めたように思えた。『女流』という小説で描かれる「お話」や人物、例えば満子のような有閑マダムの人物像や、若い芸術家である主人公の兄と、その師匠の妻である満子の間に芽生える感情や性的な関係、そして、性的に奔放である兄と、兄のようには上手く女性(というか他者一般)に接することの出来ずに屈折した感情をもつ弟(主人公)との関係など、それらのものは「文学」として典型的というよりありふれてさえいるのだが、実際に読んでいる時には(つまり個々の場面は)、ありふれているどころか、常に油断ならないような切迫感があり、しかし同時にどこか間の抜けたような滑稽なところもあり、そして次にどこへ向かって展開して行くのか予想がつかない不透明感もあり、どちらにしても常に「妙な感じ」で当惑させられつづける。お話や関係が典型的なものであることは、読んだ後に頭を整理しようとしていて気付くことで、読んでいる間じゅうはずっと、この小説世界にも登場人物にも「親しむ(安心して身を預ける)」ことが出来ない。おそらくこの、当惑させられつづけて「親しむことが出来ない」という感触が、読者だけでなく、小島信夫の登場人物が世界に対して感じつづけている感触なのではないだろうか。この「親しむことが出来ない」という感触を「楽しむ」ことが出来れば、小島信夫の描く個々の場面はとても面白く、粒立って感じられるのだ。(その感触は、読んでいて決して「心地よい」ものではないが。)『女流』の主人公の謙二は、兄の良一が奔放に関係を持つ女性たちに強い関心をもつ(つまり性的に惹き付けられている)のだが、彼女たちに「親しい」感情や関係をもつことが出来ないし、弟は兄に対しても「親しみ」をもてない。この兄弟は、常に「身体をすりあわせ」るようにして生活していて「髭の剃り合い」さえしている(髭の剃り合いって一体何だ!)というような密着ぶりで、おそらく互いに相手に対する依存度が高いと思われるのだが、しかし、実際に描かれている場面での二人の関係は、常にギスギスした感じがつきまとっている。兄は弟のヌードを絵の題材としているし、満子から来た手紙を弟にわざわざ大学ノートに書き写させてさえいる。一体この兄弟の関係はどうなっているのかと思うような気味の悪い湿った密着ぶりなのだが、しかし、文章のせいなのか、読みながら感じられるのはむしろ、乾燥しガサガサした肌が擦れるような摩擦感というか違和感なのだ。(例えば安岡章太郎の小説ような湿った感じは全くないのだ。)
『女流』のように一定以上の長さをもった小説を終盤まで読みつづけていっても、読者にとってその世界が一向に「親しいもの」になってこないのは、その展開の読めなさというか、小説がつくり上げている(あるいは前提としている)基底や地平がなかなか掴めないということも理由の一つではないかと思う。弟と兄の関係、あるいは弟の兄を通した女性たちとの関係(感情)の屈折が小説の持続を支える核になるのかと思えば、兄はけっこうあっさり死んでしまって、謙二(弟)が満子の家族を外側から見るような展開になり、そうかと思えば、話者である弟は知らないはずの、兄と満子との関係が直接的に描かれたり(一応、兄の日記に書かれてることを弟が解釈していることにはなっているけど)、かと思えば、兄の死をみとった礼子という女性によって眺められた満子の姿が描かれたり、と、時間もはげしく前後するあまりに自在な(というか、おそらく多分にいきあたりばったりな)展開は、それぞれの細部が絡み合うことで全体として何かを立体的にたちあげるのではなく、あくまで個々の場面の不透明感(親しむことの出来ない感じ)の生々しさこそが頭に残り、溜まって行く。小島信夫の小説では、時間も空間も連続したものではないし、個々の出来事も因果関係で繋がってもいないので、個々の場面でたちあがる不透明さをコンテキスト抜きで処理しなければならないという緊張感が持続するのだと思う。